7月4日(聖霊降臨後第六主日)の週報です
本日の礼拝週報をお届けします。
お知らせ
週報の「お知らせ」欄でご案内したオンラインイベントの2つについて、チラシを以下に掲載いたします。7月のホーリネスオンラインセミナーと、オンラインの夏季聖会です。
先ほど終了した祈祷会の学びのライブ配信動画を、ブログでも提供いたします。
イザヤ書49章の背景
イザヤ書の第二区分(40-55章)は、バビロン捕囚により、エルサレムから遠く離れたバビロンの異教世界において日常生活を送る人たちに対して、神が捕囚からの帰還として救いを実現してくださることを慰めとして告げる預言の言葉です。繰り返される偶像崇拝の批判は、バビロンにあって人々から崇拝されている神々になびいてしまっているイスラエルの民に対して、あらためて天地万物の創造主なる神ヤハウェに立ち返ることを呼びかける意図を持っています。
特に44章や46章では、ベル神、ネボ神が名指しされ、その偶像の作成過程までも詳細に描かれて揶揄されていて、森から切り出した木の一部を煮炊き用の薪にして、残りで神々の像を作る、といった表現は滑稽なほどです。実際には、どの宗教でも「聖」と「俗」の区別が重要視され、聖なるもののために使うものと、俗なるもののために使うものは厳密に区別されますから、ここで描いているように、煮炊きに使った「残り」で神々の像を作っていたとは考えにくいと思います。それはむしろ、イスラエルがそれらの神々を魅力的な選択肢と考え、あるいはバビロンで暮らす中で当然のようにバビロンの神々を拝むようになっていた状況が反映されているのでしょう。その神々ではない!あなたがたが拝むべきはヤハウェただお一人だ!という強い主張をするための意図的な戯画化(誇張して歪めた表現)ということです。
こうした偶像批判は、その激しい口調から、通常、ユダヤ・キリスト教的な唯一神教の「排他性」として語られがちですが、決してそのように単純化すべきではないと思います。こうした表現の根底には、イスラエルの民と、彼らをエジプトから救い出した神との間で結ばれた契約があります。イスラエルの民は、神によって贖われ、46章の表現を使うなら、「母の胎を出た時から私に担われている者たち」、「腹を出た時から私に運ばれている者たち」であり、この神ヤハウェ以外を頼りにすることはありえない、ということです。
僕イスラエルの役割
神がかつてイスラエルをエジプトの奴隷の家から贖い、今度はバビロンから贖って連れ帰ることは、イスラエルが「主の僕」としての役割を委ねられたということを意味します。49章6節には、神ヤハウェが「イスラエルの生き残った者を連れ帰らせる」目的は、「諸国民の光とし/地の果てにまで、私の救いをもたらす者とする」ためだと、はっきりと述べられています。最初にエジプトから贖われた際には、イスラエルはこの役割を担うことに失敗し、捕囚の憂き目に遭うことになりました(43章)。49章は、神による選びが変わらないことを強調しますが、それは、諸国民の光として、救いをもたらす「僕」としての使命への選びであることを覚える必要があるでしょう。
先ほど終了した礼拝のライブ配信動画を、ブログでも提供いたします。
ルカ17:1-10
一見すると、複数のテーマの短い教えがゆる〜く繋がっているように見えますが、よく読んでみると、この箇所も実はかなり深いところで繋がっているように思えます。
1-2節
人をつまづかせることがどれほど悲しむべきことかについて、ルカ版の主イエスは、「首に挽き臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまうほうがまし」、と語ります。挽き臼は石で作られたものですので、石を括り付けて人を海に放り込むというと、殺人事件っぽく聞こえてしまいますが、それほど人を躓かせることが恐ろしいことだ、という警告なのでしょう。ちなみにマタイ18:6-7の並行箇所では、「ろばの挽く石臼」となっていますので、回転する上石の中心から出ている棒につけた横棒をロバの首に固定して、ロバが石臼の周りを回って粉を挽くという、業務用の大型の石臼です。ルカ版のイメージよりも格段に残酷ですね。
ただし、ここで聖書協会共同訳が「災いがある」と訳したギリシア語は、「ウーアイ」で、ルカ6章の「平地の説教」にある「富める者」への警告にも使われていて、新改訳2017は「哀れ」と訳しています(ここもそう訳しているかと思ってチェックしてみたら、なぜか「わざわい」と訳してありました。なぜ?)。もともとの意味としては、嘆き悲しむ悲嘆の声を音として表現したもののようですから、「ああ」なのでしょうが、「ああ」だけだとなんだかわからないので、「嘆かわしい」くらいが妥当かもしれません。いずれにせよ、人を躓かせることはその相手を滅ぼすことになることから、それがどれほど悲しむべきかをわかりやすく伝えるために、このようにグラフィックに描写したのでしょう。
3-4節
次の部分は、同じ人物が一日7回も罪を犯してきた場合に、それでもその人を赦すようにと教えます。この人物が同じ罪を7回犯してくるという想定なのか、7つ別の罪を犯してくるという想定なのか、詳細は一切描かれません。そもそも、7回も「悔い改める」ということ自体、普通に考えると極めて怪しい、疑わしい事態です。本気で悔い改めているのが伝わってくる状態なら同情する気持ちも湧いてくるでしょうが、一日7回となると、「確信犯」だろうと思いたくなります。ルカには他にも、15章の放蕩息子のように、「悔い改め」のセリフをリハーサルしてから父親の元に戻るという、誠実さが疑わしい悔い改めが描かれている人物が出てきます。主イエスは、そのような疑わしい人物であっても、毎回赦すようにと教えているのかもしれません。なかなか大変な要求だと思います。
前の部分との繋がりについて考えて見ると、この7回罪を犯して7回悔い改める人物が、つまずきとなる人物のように思えるのですが、あるいは、そのような疑わしい悔い改めをする人物を赦さない人の方が、つまずきを与える存在として嘆かれているのかもしれません。
5-6節
5節の冒頭に「さて」という言葉があって、新しい話題に変わっていることが示されます。ここでは、弟子たちが「信仰をますにはどうすればよいか」と主イエスに問いかけますが、6節の主イエスの答えは、どう読んでもまともに答えているようには思えません。桑の木に海に入るように命じても、信仰があればその通りになるという言葉は、弟子たちには信仰がないと突き放しているように見えます。あるいは、弟子たちが求めていた信仰が、そうした奇跡を起こすような超人的な信仰だった、ということなのでしょうか?
7-10節
7節以降の部分は、奴隷の存在が一般的だった古代世界の状況を反映していますので、現代の私たちには想像力をフル稼働させないとわかりにくい箇所だと思います。ここで描かれる主人と奴隷(「僕」と訳されますが、要するに奴隷です)の関係は、当時はごく普通のものだったのでしょう。想定されている状況は、一人の奴隷が農作業ないし放牧に一日従事した後、戻ってきてすぐに主人のために食事を用意し、給仕もするという状況です。大金持ちであれば、それぞれの仕事に専属の奴隷がいるでしょうから、ここで想定される主人はそれほど大規模な農場主の大金持ち、というわけでもないと思います。それでも、奴隷に対する主人の態度は、ここに描かれるようなものが普通なのでしょう。
この箇所は、10節にある「私どもは役に立たない僕です。すべきことをしたにすぎません」というセリフは、なんとなく卑屈に聞こえて好きではないのですが、よく読むと、これは奴隷の主人に対して語りかけられている言葉ですので、日頃奴隷に対して8-9節にあるような態度で接している主人に対して、奴隷の立場に身を置くように促しているとも読めるのです。結構な仕掛けだと思います。
主人と僕の関係が逆転して描かれるのは、ここだけではありません。12:35-37では、婚礼から帰ってくる主人を目を覚ましていて迎えるという、ごく当たり前のことをした僕に対して、感激した(?)主人が、婚礼から帰ってきたばかりというのに、当たり前のことをした僕のために給仕してくれるというのは、あり得ない話です。聞いていた人たちは「そんな訳ない!」とツッコミを入れたことでしょう。でも、そこが仕掛けで、人々の常識を覆す意図があるのでしょう。しかし、この17章まで読み進むと、12章の「あり得ない」話が、意図的な立場の逆転として繋がるような気がします。
さらに22章まで視野を広げると、最後の晩餐の席上で誰が一番偉いかについて仲間割れしている弟子たちに対して、主イエスが給仕する姿を模範として示して、互いに仕え合うことを教えていますので、この立場の逆転が、本来あるべき信仰者の姿として浮かび上がります。弟子たちは、十字架の直前にも、主イエスの弟子としてのあるべき姿ではなく、むしろ「異邦人の王たち…、民の上に権力を振るう者」のように振る舞い、権力闘争を繰り広げているのです。
17:5で弟子たちが主イエスに問いかけた「信仰を増す」ということは、ひょっとすると、より強固な超人的な信仰を持って、仲間を圧倒するような(つまり権力を振るい、支配するような)信仰を求めていたのかもしれません。
主イエスが私たちに求めているのは、へりくだって互いに仕え合う信仰ではないでしょうか。
(誤変換を修正しました:2022.1.31.)
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イザヤ書第二区分
イザヤ書の第二区分(第二イザヤ)である40-55章は、バビロン捕囚からの帰還を救い(第二の出エジプト)として描く、慰めと希望のメッセージに満ちた箇所です。書かれている内容から見ても、語りかけられている人々は、明らかにバビロン捕囚の只中にある人々でしょう。日常的にバビロンの神々の誘惑にさらされている状況で、自分たちの伝統的な神ヤハウェ、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神に対する信頼が揺らぐような中、その信仰を改めて立て直すことを呼びかけているのです。
ネオ・バビロニア帝国は、紀元前597年にエルサレムに侵攻し、主要な人々を捕囚としてバビロンに連れ帰ります(第一次捕囚)。その10年後の587年には、再びエルサレムに侵攻し、今度はエルサレムを包囲し陥落させ、神殿を破壊します。この第二次捕囚によって、多くの人々がバビロンに捕らえ移されていきます。かつてのユダ王国の領土も、すべてバビロンの行政区域となりますが、荒廃した町々に住む人はまばらだったのでしょう。バビロンに捕らえ移された人々は、信仰的なアイデンティティーの危機に直面します。この辺りの様子は、詩編137編にある悲痛な叫びから想像できるでしょう。
バビロンの川のほとり
そこに座り、私たちは泣いた シオンを思い出しながら。
そこにあるポプラの木々に琴を掛けた。
私たちをとりこにした者らがそこで歌を求め
私たちを苦しめる者らが慰みに
「我らにシオンの歌を一つ歌え」と命じたから。
どうして歌うことができようか
異国の地で主のための歌を。(1-4節)
彼らは、栄華を極めたバビロンで、壮大な神殿で贅の限りを尽くした神々への礼拝が行われる中、マルドゥク神を筆頭にバビロンの神々に捧げられる賛美や朗読される神話に接して、改めて自分たちの伝統的な神礼拝について考えさせられたでしょう。果たして自分たちの神ヤハウェは本物の神なのだろうか、それとも戦いに勝ったバビロンの神マルドゥクの方が本物なのだろうか、と。そこで、なおヤハウェこそ神という信仰を貫いている人々に対して、バビロン捕囚からの帰還が「救い」として告げられたのです。
ヤハウェの僕
イザヤ書第二区分には、「僕の詩」と呼ばれる部分が4つあります。42章はその最初のものです。最も有名なのは、52章13節から53章に掛けて歌われる第4の僕の詩です。この「僕」が誰を指すのか、長らく議論されてきましたが、クリスチャンの私たちにとっては、真っ先にイエス・キリストが頭に浮かぶでしょう。
しかし、元々の第二イザヤでは、一方では捕囚からの帰還を実現させるメシア、理想的王としてのメシアという個人が「僕」と呼ばれる箇所もあり、44章、45章などでは、バビロンに代わって世界の覇者となったアケメネス朝ペルシアの王キュロスを指して「彼は私の牧者/私の望みをすべて実現する」と語り(44:28)、また彼を「油注がれた人キュロス」と呼びます(45:1)。その一方では、神の民イスラエルを指して「私の僕」と呼ぶ箇所もあります(42:19)。
メシアを指して「僕」と呼ぶ部分は、捕囚からの期間に焦点が合わされていますが、イスラエルを指して「僕」と言う時には、かつて神の民イスラエルが「僕」としての役割を果たすことに失敗し神に背いたことを回顧し、それにも関わらず神がその出来損ないの「僕」を贖う、と告げるのです。捕囚からの帰還は、神による赦しの側面が色濃いのですね。いずれにせよ、この二重の「僕」の意味を念頭において読むと、わかりやすいかもしれません。
先ほど終了した礼拝のライブ配信動画を、ブログでも提供いたします。
14-18節 つなぎ?
14-15節は、1-13節の「不正な管理人」の譬え+教えに対するファリサイ派の人々の反応と、それに対する主イエスの応答です。「金に執着する」という表現にドキッとしますが、何もファリサイ派に限ったことではなく、私たちも富の誘惑にさらされて生きているのだと、あらためて考えさせられます。「人々の間で尊ばれるもの」は、前の譬えの締めの言葉(13節)からしても、「富」つまりお金、ということになります。
16-17節には「律法と預言者」という表現が出てきますが、これはそれぞれトーラーつまり「モーセの律法」と、預言書とを指し、両方合わせて「聖書」ということになります。「ヨハネの時まで」という表現で、主イエスの宣教によって新しい時代が始まったことを表現しているのでしょう。ルカ4章のナザレの会堂のエピソードでは、主イエスがイザヤ書61章を朗読し、そこに書かれている「主の恵みの年」、つまり終末におけるヨベルの年の実現を宣言した際に、「貧しい者に福音を告げ知らせる」という表現がありますが、ルカは、「神の国の福音」が主イエスの宣教によって始まったことを強調しているわけです。
ただし、16節の後半部分はよくわかりません。主イエスの福音宣教を受けて、人々が神の国に激しい勢いで殺到しているのか、それともサタンと悪霊とが激しく襲っているのか、ルカの表現だと、どちらとも取れそうです。何れにせよ、主イエスの福音宣教によって激動の時代に入った、ということは確かでしょう。
そうなると、17節の「天地の消え失せるほうが易しい」という表現も、その激動の時代、つまり終末の始まりを示しているのだと思います。というわけで、17節は、天地が滅びるとしても律法は一画も落ちることはない、つまり律法は隅々まで有効だ、ということを言っているのだと思います。
18節は、その律法の有効性を示す一例という位置づけかもしれません。マルコ10章(&マタイ19章)には、もう少しスペースを割いて離縁についての教えが記されていますが、そこでは、ファリサイ派の人々が、モーセ律法の言葉を盾に、主イエスを試そうとして離縁についての質問を投げかけていますので、このルカの箇所も、何となくそれが背景にあって、彼らの質問が律法の精神を曲げてしまっているという反論なのかもしれません。人間は自分の都合で律法の教えを「解釈」してしまうが、律法の本来の教えは変わらない、という宣言だと理解すれば、前後のつながりが良いと思います。そして、その律法の本質は、イザヤ61章のヨベルの宣言や、ここまでのルカの強調からも、貧しい者を憐れむ神の愛に集約されることは明らかです。19節以降の「金持ちとラザロ」の譬えでも、「モーセと預言者」(つまり聖書/律法)という表現が繰り返されていますから、14-18節と同じことが強調されていると考えて良いと思います。
「金持ちとラザロ」の譬えは比較的シンプルなので、この続きは動画の方でどうぞ。
本日の礼拝週報をお届けします。
お知らせ
本日午後3時から、ホーリネスオンラインセミナーが開かれます。講師は上中栄先生(旗の台・元住吉教会牧師)、タイトルは「コロナ禍と教会の課題」です。ちょうど、つい先日(6月17日付)出版された「新教コイノーニア36」、富坂キリスト教センター編『100年前のパンデミック:日本のキリスト教はスペイン風邪とどう向き合ったか』(新教出版社、2021年)に、上中先生が「スペイン風邪と再臨運動」という論文を寄稿しています(120-144頁)。さすがです。ぜひ期待してご参加ください。
同じく20日の午後、上記セミナーの後に続いて(というか、いつも15分くらい伸びるので被ると思いますが)、千葉教区と茨城教区ジョイントのオンラインプレジャム大会が開かれます(16:00-18:00)。こちらは、先週チラシをブログに掲載しましたが、まだ申し込みが少ないようで、当日の飛び込み参加もOKだそうです。教会宛にzoomのURLも届いていますが、次世代教育主事の安井巌先生のメール(iwao1004@icloud.com)に直接お問い合わせいただいても良いと思います。