nakayama-holinessのブログ

日本ホーリネス教団中山キリスト教会の公式ブログです。

4月16日祈祷会の代わり(その2)

遅れ馳せながら

 先日、4月16日の祈祷会の代わりをブログにアップした際、本題に入る前の聖書と歴史地図の説明部分だけで終わってしまい、その日の通読箇所のサムエル記下22章前後を説明した続きの部分がないままでした。実は、同じ日にその部分も動画撮影は終えて、YouTubeのチャンネルの方にはアップしておいたのですが、ブログに書く文章の方まで手が回らず、そのままになっていました。というわけで、いまさらですが、こちらにもアップしておきます。

 


祈祷会の代わり:第2弾

 

サムエル記

 サムエル記は、日本語で印刷された聖書では上下2巻に分けられていますが(新改訳系ではⅠとⅡ)、ヘブライ語ではもともと1冊ものでした。紀元前2世紀頃にギリシア語に訳された際に二つに分けられて、列王記上下2巻と合わせて、4分冊の「列王記」にまとまられたようです。つまり、私たちの手元にあるサムエル記上下は、ギリシア七十人訳聖書では列王記1、2で、私たちの手元にある列王記上下は、七十人訳聖書では列王記3、4というわけです。なかなか面倒ですね。

 内容としては、サムエル記は、預言者サムエルの登場と衰退に始まり、ダビデ王の治世の物語で終わるという、古代イスラエルにおける王政成立史を描いた歴史書です。上巻はサウル王の死まで、下巻はダビデ王の晩年までを描きます。

 

サムエル記の特徴:王政批判

 サムエル記に一貫する特徴として、王政に対する批判的視点を挙げることができると思います。預言者サムエルを指導者とするイスラエル12部族の人々は、近隣にひしめく王国の脅威に対して、自分たちも同じように王を立てることで対抗しようと考えます。その願いは、「主なる神こそが王である」との理念に反するものであり、神はサムエルを通して、イスラエルの民に人間の王の現実の姿を見せつけて警告します。サムエル記上8章において、民は「王が陣頭に立って進み、我々のために戦の指揮を執る」ことを願いますが(19-20節)、神は、現実には王が民の「息子を徴用し、戦車に乗せ、騎兵にして王の戦車の前を走らせる」ことになると告げます(11節)。自分たちの前に立ちはだかって、自分たちを守ってくれる王を期待する民に対して、人間の王は、その民の息子たちを盾のように自分の前に置いて戦わせ、民を犠牲にする王だというわけです。なんとも皮肉な話ですね。この他にも、「あなたがたの畑、ぶどう畑、オリーブの畑の最も良いものを没収し、家臣に与え…、あなたがたの穀物とぶどうの十分の一を徴収し、宦官や家臣に与え…、こうして、あなたがたは王の奴隷となる。その日、あなたがたは自ら選んだ王のゆえに泣き叫ぶことになろう。しかし、主はその日、あなたがたに答えてはくださらない」(14-17節)とあります。

 サムエル記は、こうして始まった王政が、ダビデによって北の十部族(イスラエル)と南の二部族(ユダ)の統一王国として成立する過程を描きますが、そこにも王政批判の視点が読み取れます。一方では、神に対するダビデ王の信仰を描き(上17章、下6、7章他)、また、サウル王に妬まれ命を狙われながらも、神が油を注いだ王として最後までサウル王に忠誠を尽くしたダビデの姿を好意的に描きます(上18-26章)。しかし他方、人間ダビデの弱さを強調し、ダビデが忠実な部下ウリヤの妻バト・シェバを奪い、その証拠隠滅のためにウリヤを戦死させた出来事を赤裸々に描きます(下11章)。神は預言者ナタンを遣わして、そのダビデの罪を告発しますが(下12章)、その預言者ナタンによって語られたダビデ王朝に対する裁きの言葉が、その後のダビデ王家の上に災いとして降りかかる展開が描かれていきます(下13章以降)。明らかに物語の主人公はダビデであるにもかかわらず、決してダビデをヒーローとしてだけ描いてはいません。つまり、サムエル記はダビデ王の手柄や業績を称賛する王政プロパガンダ文書ではない、ということです。ダビデによって戦死させられた、ウリヤの視点が忘れ去られることはないのです。

 

列王記上下巻

 列王記では、ダビデ王死後の王位継承物語に始まり、ソロモンによる王国の版図拡大、ソロモン死後の王国分裂、そして北王国イスラエルと南王国ユダが、アッシリア帝国によって(イスラエル:紀元前722年)、そしてネオ・バビロニア帝国によって(ユダ:紀元前)、それぞれ滅ぼされ、イスラエルが消滅する過程が描かれます。また詳しくは後日…。

宗教法人日本ホーリネス教団中山教会・ 〒273-0024 千葉県船橋市二子町604-1・ 牧師:河野克也 Katsuya Kawano