nakayama-holinessのブログ

日本ホーリネス教団中山キリスト教会の公式ブログです。

2020年7月23日 祈祷会の学び

祈祷会の学び:ライブ配信動画

 10:30からのライブ配信の動画を、ブログでも提供いたします。7月23日の中山教会の聖書通読箇所は、歴代誌下20章ですが、先週13章でしたので、14章のアサ王も含めて、列王記上の記述と比較しながら、読み進めました。


2020年7月23日 祈祷会の学び

 

ちょっとだけ内容紹介:ユダ王アサ編

 ユダ王国のアサ王は、歴代誌下14:1-16:14に描かれます(列王記上では15:9-24)。列王記の記述は実にあっさりしていて、アサ王の記事の中心は、北王国イスラエルの王バシャが攻めて来た際に、その北にあるアラムの王ベン・ハダトにありったけの貢を送って(応急だけでなく、神殿の宝物庫からも!)アラムの支配下に下ることで(属国?)、その危機を乗り切った(列王上15:16-22)ことです。これと同じ記述が歴代誌下にも出てきますが(16:1-6)、歴代誌の方はこれに加えて、先見者ハナニがアサ王を叱責し、主により頼まないで軍事同盟に頼ったことを厳しく非難します(16:7-10)。それに逆ギレしてハナニを牢にぶち込んだアサ王の姿(10節)は、その前に書かれているクシュとの戦いにおいて主により頼んだ姿(14:10)や、預言者オデドの言葉に励まされて偶像崇拝を一掃し、主の祭壇を新しくした姿(15:8)、また母マアカがアシェラ像を作った際には、その偶像を砕き、母を太后の位から退けた姿(15:16)とは対照的です。ここまでは「アサの心は生涯を通じて主と一つであった」という高評価だったのですが(15:17)、歴代誌の視点では、やはりその後の残念な展開を書かないで済ますわけにはいかなかったのでしょう。ちなみに、晩年の足の病に際して、「その病の中でも、彼は主を求めず、医者を求めた」(16:12)と書かれていますが、この辺りは、現代の私たちは、医学の発展も主の恵みであると理解していますので、「主を求めて医者にかかる」というのが正解でしょう。

ちょっとだけ内容紹介:ユダ王ヨシャファト編

 ヨシャファト王の治世は、歴代誌下17:1-21:1という、かなりのスペースを割いて描かれますが、列王記上では22:31-51とあっさりです。列王記上で、15章のアサ王から22章のヨシャファト王までずいぶん間が空いていますが、これは列王記が北王国の王たちにも漏れなく言及するからだけではなく、北王国の預言者集団の視点を色濃く反映しているからです。間に挟まっているのは、あの有名は預言者エリヤの物語(17-21章!)といえば納得でしょうか?

 歴代誌下のヨシャファトの記述は基本的に高評価です。「主はヨシャファトと共におられた。彼が父祖ダビデの道に従って歩み、バアルを求めず、先祖の神を求め、その戒めに従って歩み、イスラエルの人々の仕業に倣わなかったからである」(17:3-4)、また「父アサの道を歩み、そこから離れず、主の目に適う正しいことを行った」(20:32)、と書かれています。

 歴代誌下の記述では、アサの時もそうですが、ヨシャファトについても、戦いに際しても主にのみより頼むという基本姿勢が強調されます。それで、北王国イスラエルのアハブに唆されて、アラムからラモト・ギルアドを奪還する戦いに参加した記事(列王記上22:1-40)を記すにあたって、歴代誌下では、戦争から無事エルサレムに戻って来たヨシャファトに対して、予見者ハナニの子イエフが王を叱責しています(19:1-2)。ちなみに、アサ王の時は「先見者」と書かれていましたが、ここでは用語が変わっています。ほぼほぼ同じ意味なのでしょうね。何れにせよ、この1点だけはクレームが付きましたが、歴代誌のヨシャファト王の評価は一貫して高いものです。イエフでさえ、主の怒りを告げつつも、なお「あなたには良いことも見いだされます」として、評価しているほどです(19:3)。20章のモアブ・アンモン連合軍との戦いの記述でも、ヨシャファトが「主を求めることだけを願い、ユダのすべての人々に断食を呼びかけた」ことが記されます(20:3)。ヨシャファトの祈り(6-9節)は、ソロモン王が神殿奉献に際して祈った祈り(歴代誌下6章、特に19-21, 24-30a, 34-35節)を彷彿とさせます。この戦いは、かつての聖戦のように「主の戦い」として描かれていて、主の霊によって、「…恐れてはならない。おののいてはならない。これはあなたがたの戦いではなく、神の戦いである。…あなたがたは…その時は、戦う必要はない。しっかり立って、主があなたがたを救うのを見なさい。…恐れてはならない。おののいてはならない。…主があなたがたと共におられる」(20:15-17)と告げられます(出エジプト記14:13-14; 申命記1:29-30を参照)。

祭司・レビ人の視点

 歴代誌が、捕囚から帰還して神殿再建と神殿祭儀の再興をになった祭司・レビ人の視点から書かれていることは、何度か触れて来ましたが、今回の箇所でも、割りにその視点が色濃く反映しています。アサ王の部分では、アザルヤの預言の言葉に促されて偶像崇拝を一掃し、戦利品の中から大量の犠牲を主に献げたことが記されます(15:1-15)。ヨシャファト王の部分では、さらにその視点が明らかで、祭司・レビ人がユダの全土で律法を教える教育を行ったこと(17:7-9)、またユダの全土で主の御心に適う正しい裁判が行われるように司法改革も行ったこと(19:4-11)が記されています。律法の書(トーラー)でも、出エジプト記レビ記申命記で、イスラエルをエジプトの奴隷の家から救い出した神との契約を根底に据え、神の憐れみ深さを反映する社会を築くように命じる律法を守ることが繰り返し命じられますが、そうした律法の根本精神を、祭司・レビ人が担い続けた、という自負があるのでしょう。

 祭司・レビ人といえば、私たちはどうしても神殿の礼拝での役割を真っ先に思い浮かべますが、実際には、教育や司法においても、不可欠な存在として社会の隅々に信仰を行き渡らせる役割を担ったことを記憶したいと思います。彼らの役割において、礼拝と社会生活は別物ではなかったのです。私たちも、日曜と平日、礼拝と社会生活が分離しないように、心がけたいと思います。

(結局長くなりました。)

宗教法人日本ホーリネス教団中山教会・ 〒273-0024 千葉県船橋市二子町604-1・ 牧師:河野克也 Katsuya Kawano