nakayama-holinessのブログ

日本ホーリネス教団中山キリスト教会の公式ブログです。

2020年9月10日 祈祷会の学び

ライブ配信した祈祷会の学びの動画です

 先ほど終了した9月10日の祈祷会の学びのライブ配信動画を、ブログでも提供いたします。

 


2020年9月10日 祈祷会の学び

 

後味の悪いエステル記

 個人的な感想ですが、血なまぐさい復讐劇が描かれるエステル記を好きになれません。

 エステル記の物語に、どれくらい歴史的な事実としての核があるのかについては、いろいろと議論があるようですが、現在の形での物語は、明らかにエンターテイメント的な要素が満載です。エステル記のプロット(筋)の中心は、3章で描かれるハマンによるユダヤ民族絶滅の策略が、モルデカイの知恵とエステルの勇気によって覆されていくという大逆転劇です。王に重用され人々が跪き拝むハマンに対して、ユダヤ人であるモルデカイは決して膝をかがめないという描写は、モルデカイによって代表されるユダヤ民族に対して、異教的な環境にあっても神以外のものを拝まない(偶像礼拝をかたくなに拒む)ことを貫くように勧める意図をもって書かれたものです。

 この大きなプロットの中にあって、詳細が実に良くできています。4章で、宿敵ハマンは、王妃エステルの主催する王のための酒宴に招かれて上機嫌になりますが、門のところで、モルデカイが相変わらず自分に膝をかがめないことに機嫌を損ね、家で妻に愚痴を言います。すると、ハマンの妻と、ハマンの友人たち(忖度する人たち?)は、ハマンに対して、王に気に入られていることを利用して、モルデカイの処刑を王に進言するように促します。

 ところが、その夜、眠れない王は、過去の記録を読み聞かせ、かつて暗殺計画を暴いて王を救ったモルデカイに、何も報酬を与えていなかったことを、その同じ記録から知ることになります。そこでモルデカイに栄誉を与えようとする王のもとに、ちょうどモルデカイの処刑を進言するためハマンがやって来ます(夜中に王のもとに来た、ということではなく、翌朝でしょうね)。「王が栄誉を与えようとする者には、何をすれば良いか」との問いに、自分がその栄誉を受けられると考えたハマンは、最大限の栄誉を進言しますが、その栄誉は、自分にではなく、何とあの憎きモルデカイに与えられる、という展開になります。こうした隅々まで行き届いたどんでん返しの描写は、読んでいて(読み聞かされていて)実に痛快だと思います。

 7章では、さらにはハマンの悲劇が続きます。エステル主催の酒宴に招かれたハマンは、王の面前でユダヤ民族絶滅計画を暴露され、最終的に、モルデカイの処刑用に用意した柱に吊るされて処刑されることになります。もちろん、この逆転自体、すでに決して後味の良いものではありませんね。

 8章では、ユダヤ民族絶滅計画が覆されるという、メインのプロット上の逆転が描かれます。王の印の指輪を委ねられたハマンが、かつて王の名によって正式に発布したユダヤ人絶滅令は、同じ指輪を代わりに委ねられたモルデカイによって無効にされます。ただ、一度王の名によって発布された方は、決して取り消されない、ということですので、「前のやつは無し」というような単純なことではないようです。何れにせよ、新たな法では、その絶滅命令と全く同じ表現で、ユダヤ民族の敵に対する絶滅命令が、しかも同じ実行日に行われるように発布されます。

 最初の絶滅令の発布は第1の月ですが、「プル」というくじによって第12の月に実行されるように決定されていて、その12ヶ月という期間が、ストーリーの展開のための時間を確保しているわけです。エステルがハマンの策略を暴いたのは第3の月ですから、十分余裕で間に合った、ということですね。

  実際には、新しい法によって古い法が上書きされることにより、第3の月に発布された新たな法によって、人々はユダヤ人に対する絶滅命令が事実上無効になったと判断することになり、12ヶ月かけて準備を進めることになっていたユダヤ民族絶滅計画は、その時点でストップし、今度はユダヤ人が敵の絶滅の準備を始めることになります。

 さて、9章ではユダヤ人による敵の絶滅が実行される様子が描かれます。命令の実行日には、首都スサで500人が虐殺され、ハマンの10人の息子が処刑されます。首都のスサ以外では、ユダヤ人が敵対する者を75,000人虐殺したと書かれていますので、アダルの月の13日の1日だけで75,500人が殺された計算になります。さらにエステルは同じ命令を翌日にも延長するように王に願い出て、翌日は300人が追加で虐殺されます。合計75,800人です。これに処刑されたハマンと10人の息子を加えると、75,811人。

 この復讐劇は、果たして聖書の描く神の姿に照らして、どのように評価すれば良いのでしょうか? 旧約聖書は、古代メソポタミア文明の誇るハンムラピ法典の影響下にあって、有名な「目には目を、歯には歯を」という精神を受け継いでいます。これは、一般的には、復讐を命じた残虐な法のように誤解されていますが、実際には、報復が過剰になされないようにするために、同じ程度の害に止めることを命じたもので、「同害報復」(タリオ)として知られているものです。つまり、報復に際して、人間の憎しみや暴力が暴走しないように、歯止めをかける目的を持っているのです。

 旧約聖書では、この「同害報復」は出エジプト記21章22-27節に出てきますが、そこでは、奴隷の主人が自分の奴隷の目を潰したり歯を折った場合、基本的には奴隷は主人の「所有物」と見なされている時代ですので、そのままでも済ませられそうですが、聖書では、その目1つのゆえに、またその歯1本のゆえに、奴隷を自由にすることが命じられています。そこには、エジプトで奴隷だったイスラエルを解放した神の憐れみ深さが反映されているのです。つまり、聖書は、ハンムラピ法典の同害報復をさらに進めて、憐れみ深い律法として提示し直しているのです。

 新約聖書では、マタイの「山上の説教」の中で、主イエスがこの同害報復に言及しつつ、それを上回るものとして、復讐の禁止と敵への愛を教えています(5:38-42, 43-48)。主イエスは、出エジプト記がハンムラピ法典の精神をより徹底させた方向性を、さらに進めているわけです。

 このように聖書全体から見たときに、エステル記の民族全体の復讐劇は、山上の説教によって相対化される必要があると思います。

 エステル記には神が登場しませんが、王が絶妙のタイミングで不眠になり、過去の記録を読ませたことや、モルデカイへの褒美を考えているところに、絶妙のタイミングで、モルデカイの処刑を願うハマンが来るなど、「摂理」として神の働きが(間接的に)描かれている、ということは言えるでしょう。それと同時に、ユダヤ民族に敵対するものを組織的に虐殺して排除することは、(少なくとも直接的には)神が命じていない、と読むこともできるでしょう。神が直接登場しないエステル記は、私たちの信仰のあり方を考える重要なヒントを提供している、と言えそうです。

 

エズラ、ネヘミヤの解説ブログは、もうしばらくお待ちください。)

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