nakayama-holinessのブログ

日本ホーリネス教団中山キリスト教会の公式ブログです。

2020年10月8日 祈祷会の学び

ライブ配信した動画です

 先ほど終了した祈祷会の学びのライブ配信動画を、ブログでも提供いたします。

 


2020年10月8日 祈祷会の学び

 

ヨブ記の流れ:おさらい

天上の会議(枠物語)

 なんとなくここまでの全体の流れをおさらいしておこうと思います。

 ヨブ記は、1-2章が散文(普通の文体)による枠物語で、天における神の会議の様子が描かれます。そこで、サタンは全国を視察し、神に罪人を告発する検察官のような役割を担っています。「サタン」というヘブライ語は、聖書協会共同訳の巻末付録の「用語解説」にあるように、もともと「中傷する者」「訴える者」という意味ですので、登場人物の人物造形(characterization)として、まさに適役、という感じでしょうか。サタンは、天における神の会議(裁判所として司法権を担う)を構成する「神の子たち」(=天使)の一人という描き方になっています(この検察官は天使的存在なので、定年延長は関係なさそうですね)。

 このサタン/検察官に対して、神は「君はどこから来たかね」と問い、サタンが全治を視察して来たことを告げると、神はサタンに対してヨブのことを自慢して、「君はわが僕ヨブに気づいただろうか。地のどこにも彼のような者はいない。なにしろ彼は完全で、まっすぐであり、神を畏れ、悪を遠ざけているのだ」と言います(岩波:並木訳)。そこで、サタンが、あれだけ祝福すれば当然でしょう、と言い、試しに財産や子どもなど、神が与えた祝福を剥ぎ取ることを進言します。そうすれば、ヨブが神を呪うだろう、彼の信仰のメッキが剥がれるだろう、ということです。その挑発に乗った?神が、サタンにその権限を与えたところで、ヨブの苦難が始まる、という展開です。サタンの挑発は、1回目は財産と子ども、2回目はヨブ自身の健康(皮膚の病はその一つでしょうか?)ですが、神はヨブの命を取ることは許可しません。

 こうしてのんびり座ってヨブ記を読んでいる「読者」である私たちは、この天における会議での神とサタンのやりとりを聞かされていますので、ヨブがなぜこんな目に遭うのか、少なくともその経緯は知って(納得するかどうかは別として)、3章以降の韻文(詩の文体)による討論部分を読み進めることになります。ヨブも友人たちも、天上での会議の様子を一切知らされていないので、両者の討論は「知らない」がゆえに迷走します(特に友人たち)。

 

ヨブの独白(1)と討論(1)&(2)

 ヨブの苦難を聞きつけた友人3人がヨブのもとに駆けつけ、あまりの惨状に7日7晩ただ沈黙してヨブに寄り添いますが、ついにヨブが口を開いて自分の生まれた日を呪うに至って、たまらずヨブを諭そうと語りかけ、討論が始まります。

 ヨブが自分の生まれた日を呪ったことは、事実上、命を与えた神への反逆、天地創造の神の御業の否定ということになるでしょう。「私の生まれた日は消えうせよ。…その日は闇となれ」(3:3,4)というヨブの言葉は、「光(が)あれ」との一言をもって闇の中に光を生み出して天地創造を開始した、その神の御業を直接否定するような内容です(創世記1:1-5)。これに対して、友人たちは、かつて苦しみの中にある人々を支えたヨブの姿とのあまりの違いに、かつての姿をヨブ自身に思い起こさせつつ、かつてのように神に信頼するよう諭します(エリファズ、4:3-6)。友人たちの語りの中心にあるのは、神は罪人を罰し義人を祝福する、という理解です。ヨブ自身も繰り返し認めているように、一般論としてはこれは正しいでしょうが、ヨブにとっての問題は、神が下した災いは、この物差し/基準に照らして、とても正当化できるものではない、神は自分に対して天の万軍を仕向けて、戦いを挑んでいる、というものです。「神は罪人を罰し義人を祝福する」という原則は、この後の討論で一貫して、友人たちのヨブに対する非難の根拠として言及されます(そして、第3巡目では暴走します)。

 枠物語では、神がヨブの義を絶賛し、サタンもその点について一切疑いを挟んでいませんので(サタンの主張は、ヨブが義人として生きているのは、神が甘やかして祝福しているからに過ぎないというもので、ヨブが罪人だとは一言も言っていません)、「読者」である私たちは、ヨブの主張に偽りがないことを知って読み進めますが、友人たちは、次第にヨブの苦難をヨブの罪の証拠と見なすようになっていくのです。

 第1巡目と第2巡目の討論では、自分の状況を理解し共感してくれない友人たちに対して、不満をぶつけるヨブと、「罪人→罰/義人→祝福」の原則を振りかざしてヨブを説得(少なくとも最初のうちは)しようとする友人たちの発言が食い違っているものの、一定の節度を持って、順番に口を開いています。途中ヨブは、友人たちに黙っていてくれるように言い、神に向かって語りかけもしますが、それでも、討論としては続けられます。

 もう一つ、ヨブも友人たちも、神の天地創造の御業を引き合いに出して、創造主である神と被造物に過ぎない人間の対比を述べますが、ここでも、創造主なる神が被造物に過ぎない人間を追い詰める不条理また非情さを嘆き、苦難を撤回してくれるように神に懇願するヨブとは対照的に、友人たちは、被造物に過ぎないヨブは、創造主の神の前では罪人に過ぎず、苦難を当然としてヨブを攻める点で、話が噛み合いません。

 

ヨブと友人たちの討論:3巡目(破綻)

 さて、2巡目までは、友人たちの発言も、一般論的、原則論的な視点からヨブを諭そうとするものだと判断できるのですが、3巡目になって、事態は大きく転回します。エリファズがヨブに反論して口を開いた22章では、ついに「罪人→罰/義人→祝福」という原則論から、個別具体的にヨブの罪をあげつらうようになります。エリファズは、ヨブが「理由もなく同胞から質を取り/裸の者たちの衣を剥ぎ取る。渇いた者に水を飲ませず/飢えた者に食物を与えない。腕力で土地をわが物にする者/そこに住む顔役のように。あなたはやもめを空しく去らせ/みなしごの腕を砕く」と攻め立てます(22:6-9)。これは、エリファズ自身が経験的に知っているヨブの姿からは、決して出てこない内容であり、事実ではないと判断できます。つまり、彼はヨブの苦難の壮絶さを説明するために、ヨブがそれに釣り合うだけの罪を犯したと考え、思いつく限りの罪を並べ立てているのです。この告発内容は、天上の会議において「告発者」の役割を担うサタンでさえ認めない、明らかな「偽証」でしょう。ヨブ自身が自らの過去を回顧した29章の内容と比較すれば、このエリファズの発言がどれほどひどいものかがわかります(29:1-10)。真逆の内容です。

 このような転回を受けて、第3巡目の討論は破綻します。エリファズに答えたヨブの発言に反論する2人目のビルダド(25章)は途中でヨブに遮られ(岩波:並木訳では、ビルダドの発言があまりに短いことと、内容的にもスムーズにつながるとして、26章5-14節をビルダドの発言と見なして、1-4節のヨブの発言と入れ替えます)、3人目のツォファルに至っては、発言の機会すらありません。最後の枠物語(42:7-17)では、神がエリファズに対して、「私の怒りがあなたとあなたの二人の友人に向かって燃え上がる。あなたがたは、私の僕ヨブのように確かなことを私に語らなかったからだ」と言い、罪の贖いのために犠牲を捧げることを要求しますので、第3巡目のエリファズの語りが、「偽証」であったことが、神の言葉によって確認されるというわけです。

 

第3巡目の破綻した討論から学ぶこと

 まだこの先にある、ヨブの独白も若造エリフの飛び入り参加も、神とヨブの対話も、そして最後の枠物語(終曲)も読まなければ、全体の結論は語れないのですが、少なくともこのように見ると、苦しみに寄り添う姿勢について、深く考えさせられます。ヨブの苦しみに対して、友人たちは、「罪人→罰/義人→祝福」という原則から抜け出すことができず、ヨブの苦難を罪に対する罰として攻め続け、ついにはヨブの罪について偽証するに至ったのですが、私たち自身、日常生活において、この思考にとらわれてはいないでしょうか? 自分の状況についてもですが、他者の苦しみについて、この思考から批判的になることがあるとしたら、根本的に考え直す必要がありそうです。

 私たちは最初の枠物語を読んでいますので、ヨブに襲い掛かった苦難が、ヨブの「罪」に対する罰ではないことを知っています。天上の会議でのサタンと神のやりとりは、現代の私たちには納得しづらいですが、少なくとも、ヨブの苦難が、神の手の届かないところでヨブを襲った、救いようのない絶望的状況では無い、ということだけは確かです。神の許しのもとで起こったことである以上、神によって回復される可能性と希望が残されている、ということです。私たちも、安易に苦難を罪の罰と見なす考えから脱却して、苦難に対して最終的な権限を持つ神に信頼し、希望を持ち続けたいと思います。

 

宗教法人日本ホーリネス教団中山教会・ 〒273-0024 千葉県船橋市二子町604-1・ 牧師:河野克也 Katsuya Kawano