nakayama-holinessのブログ

日本ホーリネス教団中山キリスト教会の公式ブログです。

2020年10月18日 礼拝

ライブ配信した礼拝動画です

 先ほど終了したライブ配信の礼拝動画を、ブログでも提供いたします。今朝は、主イエスが72人の弟子たちを宣教に派遣する場面と、悔い改めないガリラヤの町々のことを嘆き悲しむ場面です。

 


2020年10月18日 主日礼拝

 

平和がこの家にあるように

 この言葉は、挨拶の言葉ではありません。ヘブライ語で「シャローム」(平和)は挨拶の言葉ですが、この場面では道で誰にも挨拶しないように、むしろ、受け入れてくれる家で、この平和の宣言をするようにとの指示があります(10:4b-5)。弟子たちが告げる神の平和がその家にとどまるか、弟子たちに戻ってくるかは、その家の人がこの平和を受け入れるかどうかにかかっている、ということです。

 主イエスは、19章で、敢えてロバの子に乗って、旧約聖書の預言する「平和の王・柔和な王」としてエルサレムに入城しましたが(19:28-40)、その際に、「平和への道」をわきまえず、ローマに対して武装蜂起して平和を勝ち取り民族国家を再建しようとして、結局はローマ軍に徹底的に破壊されることになるエルサレムの悲劇を見越して、嘆き悲しみ、涙を流した様子が描かれています(19:41-44)。この嘆き悲しむ主イエスの姿は、10章13節にも描かれています。ガリラヤ湖北西部の沿岸にあるコラジンとベトサイダに対して、やはり同じように嘆き悲しんでいるのです。聖書協会共同訳は「災いだ」、新共同訳は「不幸だ」と訳しているこの部分は、積極的に呪っている言葉ではなく、嘆き悲しむ声を表現するものです(その意味では、新改訳2017の「ああ」が、結構いい感じに訳していると思いますが、もうちょっと何かあっても良さそうです。「嘆かわしい」とか…。)

 ルカ福音書では、神の平和が、ローマ皇帝が軍事力を背景にもたらす「ローマの平和」(パックス・ロマーナ)と対比させて描かれ、ローマの内戦を終結させて「平和」をもたらした皇帝アウグストゥスが「救い主」と呼ばれるのに対して、主イエスこそ「救い主」と宣言します。この政治的文脈でのコントラストをしっかり見据えて、神の平和を宣教していくことが、72人の弟子たちのみならず、現代の私たちにも委ねられている務めではないかと思います。

 ルカ4章では、主イエスがナザレの会堂で、故郷の人たちを前に、旧約の預言者エリヤの時にも、エリシャの時にも、神はイスラエルをお選びにならず、むしろ外国人のやもめと将軍をお選びになったと語り、反感を買い、殺されそうになります。同郷人の民族主義的な優越思想を敢えて指摘したことで怒りを買った、ということでしょう。10章でも、悔い改めないコラジンとベトサイダを、異邦人の地であるティルスとシドンと比較して、ティルスやシドンの方がよほどマシだと言っています。ローマに対する武装蜂起も、ユダヤガリラヤの人々の民族主義が要因ですので、力による支配、武力による敵の排除を「平和」と取り違えることが、根本的な問題だと言えるでしょう。

 また平和については、改めて考える機会を設けたいと思います。

宗教法人日本ホーリネス教団中山教会・ 〒273-0024 千葉県船橋市二子町604-1・ 牧師:河野克也 Katsuya Kawano