nakayama-holinessのブログ

日本ホーリネス教団中山キリスト教会の公式ブログです。

2020年11月1日 礼拝

11月1日 礼拝ライブ配信動画

 先ほど終了した11月1日の礼拝ライブ配信の動画を、ブログでも提供します。


2020年11月1日 礼拝

 

善きサマリア人のたとえ

 この譬え物語は、「困っている人には分け隔てなく親切にしましょう」的な博愛精神を教えるものとして読まれることも多いですが、例えを話した状況や、その少し前に書かれているエピソードを、歴史的な背景に照らして読むと、より深い次元で、民族間の憎悪の連鎖を断ち切って、敵を愛する愛を教えているものとして読むことができます。

ユダヤサマリアの敵対関係の歴史

 旧約聖書の列王記上12章を見ると、ソロモン王の時代に重税に喘いだイスラエルの北10部族の民は、ソロモン王の死後、息子レハブアムに対して減税を嘆願します。それに対して、年長の家臣たちはその要求に応えることを進言しますが、レハブアムと同世代の家臣たちは、一つ妥協すると調子に乗って要求をエスカレートさせるからと言って、その嘆願を拒絶し、むしろ父王よりも厳しい態度で臨むことを進言します。レハブアムは、同年代の家臣の声に従い、厳しい態度で臨んだところ、北10部族は南の2部族と決別して、ヤロブアムを王に立てて、シェケムを中心とするイスラエル王国を成立させます(12:1-25)。ヤロブアムは、エルサレム神殿へのアクセスを失ったことで民の求心力が低下することを恐れ、北王国の南北の拠点であるダンとベテルに金の子牛の像を設置し、二大聖所とします(12:26-33)。その結果、南王国ユダの人々からは、偶像崇拝に手を染めた宗教的に堕落した人々と見なされるようになります。

 また、紀元前722年に北王国イスラエルアッシリア帝国によって滅ぼされると、同一言語同一人種の人々が結託して反乱を起こさないようにするため、強制的に人種入替政策を行ったことで、次第に民族的な混交が進み、民族的にも純粋なユダヤ人でないと見なされるようになります(列王記下18:9-12)。

 その後、アッシリアの危機を辛うじて生き延びていた南ユダ王国も、紀元前587年には、アッシリアに代わって世界を支配するようになったネオ・バビロニア帝国によって滅ぼされ、人口の主要な部分がバビロンへと強制移住されられてしまいます(列王記下25:1-21)。70年後に、バビロンに代わって世界を支配するようになったアケメネス朝ペルシア帝国のキュロス王は、寛容政策を進め、バビロン捕囚で強制移住させられていたユダヤ人がエルサレムに戻って、都と神殿を再建することを許可し、バビロンが神殿から略奪した財宝や祭具も返還します(エズラ1:1-11)。それによって、ペルシアの行政区となったユダの地に帰還した人々は、神殿再建を進めますが、アッシリアの人種入替政策以来その地に住んでいたと主張する人々が神殿再建への参加を申し出たところ、その参加を拒み、双方がペルシア政府に訴えるなど、攻防が続き、長期に渡って神殿と都、および城壁の再建が停滞することになります(エズラ4:1-24)。ネヘミヤ記には、アルタクセルクセス王の第20年にネヘミヤが再建工事のために長官として派遣された時期の妨害についての記述がありますが、そこでは、サマリア人が妨害者として言及されています(ネヘミヤ3:33-35)。

 時代は下って、紀元前167年に、シリアのセレウコス王朝のアンティオコス4世エピファネースが大規模なユダヤ教迫害を開始します(1マカバイ記1:10-15)。彼はユダヤ人に異教礼拝を強要し、神殿の祭壇の上に異教の祭壇を築き、その上で異教の神々へのいけにえをささげ、ユダヤ人に豚肉やいけにえの内臓を食べることを強要します(1マカバイ記1:41-64; 2マカバイ記6:1-11)。この神殿汚辱に耐えかねたユダ・マカバイオスは、仲間を率いて武装蜂起し、当時の国際情勢の追い風もあって、エルサレムを奪還し、神殿を異教の汚れから清め、再奉献します(1マカバイ記3-4章; 8:1-10:8)。こうして独立を勝ち取ったユダヤ人は、ヨハネヒルカノスを王に据えてハスモン王朝を築き、近隣へ支配を拡大していくのですが、ヒルカノスは紀元前128年頃、ゲリジム山にあったサマリア人の神殿を破壊します。

 さらに時代は下って、紀元前4年のヘロデ大王の死後、息子の一人であるヘロデ・アルケラオスが、ローマ皇帝の委託により、エルサレムを中心に北はサマリア地方、南はイドマヤ地方を含む広範囲を支配していましたが、あまりの残虐な支配に、敵対関係にあったユダヤサマリアの人々が結託して皇帝に直訴し、アルケラオスに替えて、ローマの直接統治を願い出ます。その結果、アルケラオスの領土は皇帝直轄属州となり、この新設のユダヤ州に、初代総督としてコポニウスが派遣されます(紀元6年)。ちなみに、サマリアの北に位置するガリラヤは、紀元前4年のヘロデ大王死去以来、ヘロデ大王の別の息子であるヘロデ・アンティパスが、ヨルダン川東側のペレアと併せた地域を、「四分邦領主」(4分の1の領土の領主)としてローマから任命されて、委託統治をしています。

 コポニウスの総督在任期間は紀元6年から9年までの3年間でしたが、その期間のある過越祭の時、深夜に神殿の門が開け放たれる習慣につけ込んで、数名のサマリア人が人骨を神殿に持ち込み、密かに境内にばら撒くという事件が起きました。人骨は死の穢れを帯びているため、祭りの準備で身を清めていた人々も、境内で穢れを帯びてしまうため、その年の祭りは台無しにされてしまったわけです。これは、主イエスが「善きサマリア人の譬え」を語った時から20年ほど前の出来事ですので、まだ生々しく(苦々しく)記憶している人も多かったでしょう。

 歴史を辿ると、相当に入り組んだ憎悪の連鎖が背景にあることがわかります。

弟子たちの過剰反応の背景

 ルカ9章51節には、主イエスエルサレムでの受難の時が来たと悟り、エルサレム行きを決意した場面が描かれています。ガリラヤからエルサレムは、途中1泊して2日ほどかけて旅をするほどの距離ですが、ちょうど真ん中あたりにあるサマリアで、ある村が主イエスの一行を歓迎しなかったことが記されています。腹を立てた12弟子のヤコブヨハネは、天から火を降して村を焼き滅ぼすことを提案します。なんとも過剰な反応に見えますが、このストーリーには背景があります。かつて北王国イスラエルのアハズヤ王が、預言者エリシャに対して50人の部隊を派兵した際に、2度にわたって、エリシャを守るために天から火が降って、部隊を焼き滅ぼしたのです(列王記下1章)。ここでのポイントは、火で焼かれたのが、サマリアを首都とするイスラエル王国の王宮から派遣された兵士たちだったことです。弟子たちは(おそらくヤコブヨハネ以外にも?)、サマリアへの火の審判を再現しようと考えたのでしょうか? いずれにせよ、長年の憎悪の関係から、彼らはサマリア人が火で焼き滅ぼされて当然だ、というような感覚になっていたのではないかと考えられます。

あらためて、善きサマリア人の譬え

 あらためてこの譬えを読み返してみると、主イエスを「試そうとして」質問して来た律法の専門家も、おそらく、弟子たちと同じような理解で、自分が愛すべき「隣人」にサマリア人は含まれていない(含まれているはずがない)、と考えていたのでしょう。主イエスが「律法には何と書いてあるか、あなたはそれをどう読んでいるか」と問いかけた時、それは、単に何が書いてあるかを聞く事実確認の問いではなく、その律法をどう解釈するか、という解釈をめぐる問いだったのです。律法に書かれてあることも、読み手の解釈次第で、何とでも骨抜きになってしまう、という悲しい現実があるのですね。私たちの聖書の読み方も、同じような危険を孕んでいるかも知れません。

 主イエスは、質問者である律法の専門家と、その背後で耳をそばだてている弟子たちに対して、彼らが憎しみを向けて見下していたサマリア人を、敢えて譬え物語のヒーローとして登場させて、神への全身全霊の愛を「隣人愛」という形で実践した愛の人とすることで、彼らの間違った解釈を打ち砕きます。このサマリア人こそ、敵を愛することを教え、サマリア人の村を焼き滅ぼすことを提案した弟子たちを叱った主イエスの姿と重なり合う、模範的な弟子なのです。弟子たちはこの仕掛けをちゃんと理解したのでしょうか?(ちょっと不安ですね。)

 私たちは、この譬え物語によって、私たち自身のどのような「解釈」を打ち砕かれる必要があるでしょうか? 胸に手を当てて考える必要があるかも知れません。

 

宗教法人日本ホーリネス教団中山教会・ 〒273-0024 千葉県船橋市二子町604-1・ 牧師:河野克也 Katsuya Kawano