nakayama-holinessのブログ

日本ホーリネス教団中山キリスト教会の公式ブログです。

2020年11月5日 祈祷会の学び

ライブ配信した祈祷会の学びの動画です

 11月5日の中山教会の聖書通読箇所は、詩編14篇です。先ほど終了したライブ配信での祈祷会の学びの動画を、ブログでも提供いたします。

 


2020年11月5日 祈祷会の学び

 

 この詩編は、冒頭の1-3節のギリシア語訳がローマの信徒への手紙3章10-12節に引用されていることから、比較的馴染みのある詩編かもしれません。詩編14篇での展開とローマ書3章での展開には、微妙な違いがありますので、両者の強調点をそれぞれ丁寧に読み取ることが大切だと思います。

詩編14篇の視点

 詩人は、「神はいない」と侮り、自分の利益を優先して悪事を働き、他者を食い物にする「愚か者」が蔓延し、もはや「善を行う者はいない。一人もいない」と嘆きます(1,3節)。その一方では、自分も含め、その「愚か者」たちに苦しめられながらも「主」なる神を「逃れ場」とする「正しき人の輪」の中心に神がおられるとの確信を表明しています(5節)。つまり、神を避けどころとする苦しむ者たちは「愚か者」とは区別されていて、「善を行う者」として少数ながら細々と存在している、という想定です。そして、この苦しめられている「正しい人」たちを、主は必ず助けてくださる、という信仰が表明されているわけです。

 14篇の5節は、運命の逆転を描いていて、神が苦しむ者を救うというその逆転を目の当たりにして初めて、苦しめていた側の「愚か者」が、「神はいない」と侮っていた自分の考えが間違いであったことを思い知らされる、と語ります。時すでに遅し、といった感じでしょうか。ただし、その時に「愚か者」がどのような裁きを受けるかについては語られていません。

 7節は、1-6節とは次元が異なるようです。ここでは「イスラエル」の救いが語られていますので、イスラエルの民の中での苦しめる者と苦しむ者の対比ではなく、神の民イスラエルと、イスラエルを苦しめる外国との対比が念頭にあって、その外国によって滅ぼされているイスラエルの繁栄を、神が回復してくださることを期待している内容のようです。つまり、7節だけは、(少なくとも内容を見る限り)捕囚期の状況か、少なくともそれに類するような外国の影響下に置かれている状況(属国)を反映していると考えられます。

 詩編は、多くの場合、初めは個人の嘆きや賛美の詩として歌われていたものが、直接の背景である特定の状況から一段階抽象化ないし一般化されて、時代を超えて広く共感されるようになり、共同体の嘆きまた賛美として歌い継がれるようになって行ったと考えられます。その長い変遷の過程で、民族単位の危機を経験し、その状況を反映する言葉が付け加えられたのでしょう。

詩編の変遷と「聖書信仰」

 聖書を神の霊感によって書かれた神の言葉として信じる「聖書信仰」の視点からは、この辺りの詩編の変遷はどう考えらば良いでのしょうか?

 個人的には、神の霊感をダイナミックなプロセスとして考えています。机に座って一気に書き上げるようなイメージで「霊感」を考えることは、あまりにも神の働きを狭く捉えているのではないでしょうか。神は、最初に詩を歌った詩人の創作活動に霊感を与え、それが長きにわたって広く共感を得て歌い継がれている過程でも、そのプロセス全体を聖霊によって導き、さらにその詩が共同体の詩編として礼拝祭儀に不可欠なものとして組み込まれていく段階でも、聖霊の導き、つまり霊感が働いていたと考えることが、実情に即していると思います。私たちはどうしても、自分にとって身近な現代の著作や執筆のイメージが頭にあるので、そのモデルで霊感を考えてしまいがちですが、神の霊感は、現代的なモデルに限定されないと思います。

逐語霊感説と十全霊感説

 聖書の霊感については、福音派では古くから「逐語霊感」と「十全霊感」の二つのモデルが議論されてきました。逐語霊感説は、別名「機械適齢関節」とも呼ばれ、聖書の著者に対して、聖霊が一字一句、耳元で囁くように言葉を与えて、人間の著者は秘書がタイプライターで無心にそれを打ち込むようにして、聖書が書かれたとするモデルです。この場合、言葉を書き記す人間の側の関与は最低限にとどめられていて、その人の人格、性格、時代的状況などは一切関係ない、という考えです。

 これに対して、十全霊感説の場合は、人間の著者の人格や性格、時代状況などを全て込みで、神が土の器に過ぎないその人を敢えて選び、その全人格を用いて神の言葉を書かせたと考えます。その人の人間的な欠けも、その人が置かれていた時代の制約も込みで、そこに霊感が働いたと考えるわけです。そのため、例えば、その人が手にすることができた資料が不十分であったとしても、それを用いて神の言葉が確かに伝達されたと理解するのです。創世記のように、族長について長い間語り継がれてきた小さなエピソードが集められたと考えられる部分も、そうした伝承を語り継ぐ文化を尊重し、その伝統の中で語り継がれてきたプロセス全体を、神の霊感のもとに理解することになります。詩編の場合も、長いプロセス全体が神の霊感の元にあると考えられますので、後に新しい状況に直面して描く加えられた部分も含めて、神の言葉と理解することができると思います。

 

ローマ書3章との関係など、続きはまた後ほど。

宗教法人日本ホーリネス教団中山教会・ 〒273-0024 千葉県船橋市二子町604-1・ 牧師:河野克也 Katsuya Kawano