祈祷会の学びのライブ配信動画です
先ほど終了した12月10日の祈祷会の学びのライブ配信動画を、ブログでも提供いたします。本日の中山教会の聖書通読歌詞は、詩編49篇です。
詩編49篇
詩編49篇は、個人的にはこれまであまり馴染みの深い詩編ではありませんでした。教会で使用している『新聖歌』の後ろの「交読文」に採用されていないことも、その要因の一つかもしれません。ついでに言えば、『新聖歌』は交読文について、口語訳(旧約:1955年/新約1954年)、新改訳(1970年、第2版:1978年)、新共同訳(1987年)の3つの訳を印刷する関係もあってか、採用されている聖書箇所が少ない気がします。礼拝のために交読文を選ぶ段階で、「この詩編が入っていたらよかったのに」、この預言書、この箇所が…、と思うことが結構あります。それはともかく、詩編46篇の後に50篇に飛んでしまうので、49篇はあまり意識して読むことが少なかったのかもしれません。
ただし、2010年に出版された『聖書神学事典』(いのちのことば社)に「あがない」の項目(127-136ページ)を執筆した際に、詩編49篇の8-9節(口語訳、新改訳では7-8節)は結構重要な箇所として意識するようになりました。この項目の執筆準備として、聖書の「贖い」に関連する用語を網羅的に調べたのですが、旧約聖書の中では、買い戻しに関連する重要語として、ヘブライ語のガーアル(動詞:贖う/買い戻す)とパーダー(動詞:贖う、救い出す)、およびそれらの派生語、また祭儀に関連する重要語として、ヘブライ語のキッペル(動詞:贖いをする、覆う)などの用例を一通り確認しました。詩編49篇8-9節には、これらの重要語が集中して出てきます。せっかくなので、聖書協会共同訳と月本訳(『詩編の思想と信仰 II』新教出版社、2006年)とヘブライ語をご紹介します。
8a節:
(協)しかし、人は兄弟を贖うことができない。
(月)そう、人は決して贖い出せない。
(へ)アーハ ロー・パードー イフデ イーシュ
*「ロー・パードー」は、否定辞ロー+パーダーのカル型独立不定詞で、直後のパーダーのカル型未完了形3人称男性単数「イフデ」とセットになって意味を強調しますので、月本訳の「決して贖い出せない」の方が、よりニュアンスを正確に訳していると思います。「アーハ」を「兄弟」という意味の名詞と取るか(協)、感嘆詞と取って「そう」と訳すか(月)は、どちらとも取れるようです(月本304ページ)。
8b節:
(協)神に身代金を払うことはできない。
(月)神にその贖いの身代金を払えない。
(へ)ロー・イッテーン レーローヒーム コフロー
*「ロー・イッテーン」は、否定辞ロー+ナータン(与える)のカル型未完了形3男単。「レーローヒーム」は、前置詞レ(to)+エローヒーム(神)。「コフロー」は、名詞コーフェル(身代金/代価)+3男単人称語尾(彼の/その)。
9a節:
(協)魂の贖いの値はあまりに高く
(月)その魂の贖いは高く
(へ)ヴェ・イェーカル ピドヨーン ナフシャーム
*「ヴェ」は接続詞(and)、「イェーカル」は動詞ヤーカル(高価である/高い)のカル型未完了形3男単、「ピドヨーン」は名詞(パーダーの派生語:贖い/贖いの値)、「ナフシャーム」は名詞ネフェシュ(魂/命)+アーム(3男複人称語尾)。
9b節:
(協)とこしえに払い終えることはない。
(月)永遠に放棄されよう。
(へ)ヴェ・ハーダル レオーラーム
*「ヴェ」は接続詞、「ハーダル」は動詞(やめる/ひかえる)でカル型未完了形3男単、「レオーラーム」は前置詞レ+名詞オーラーム(永遠)。
短い2節分の中に、パーダーが2回(強意)、その派生語ピドヨーンが1回、キッペルの派生語コーフェルが1回と、集中しています。
これだけ贖い関連の語彙が集中すると、相当神学的に重要な内容だと思いたくなりますが、いわゆる贖罪論というような神学的に濃い内容ではなく、ここでは自分の財産を誇る者の命が限られていて、どれだけお金を積んでも永遠を手にできず陰府に下る運命にあることを強調しています。13節、21節で繰り返される「人間は…屠られる家畜に等しい」は、その命の儚さ、金持ちの運命としての死の確実性を強調します。月本訳では、「滅びゆく動物たちに等しい」となっていますが、ここでの「家畜/動物」は、なんとベヘモットです。ヨブ記では、12章7-9節でヨブが友人たちに対して、「ベヘモト」に尋ねるなら、神が天地をお造りになったことを教えてくれると述べ、40章15-24節では、神がヨブに対して「ベヘモットを見よ」と語りかけ、古代世界において神話的な色彩を帯びて恐怖の対象だったベヘモットが、神の被造物として、神のお造りになった世界で戯れる様子が描かれます。詩篇49篇がこの「ベヘモット」を、どの程度、手に負えない獰猛な動物として念頭に置いていたかどうかはともかく、「家畜」というよりは、やはり(せめて)「動物」でしょうね。金持ちが財産と権力をかさに着て暴れまわる(傍若無人に振る舞う?)様子が念頭にあったのでしょうか?(でも、暴れまわるベヘモットも死ぬ運命!)。
なんだか面白い詩編に思えて来ました。