先ほど終了した祈祷会の学びのライブ配信動画です
12月17日の祈祷会の学びの動画を、ブログでも提供いたします。
詩編56篇
標題
この詩編には、標題がついています(聖書協会共同訳および新共同訳では1節、口語訳および新改訳2017では節番号はなし)。
指揮者によって。「はるかな沈黙の鳩」に合わせて。
ダビデの詩。ミクタム。
最初の部分は、神殿詠唱者への指示でしょう。この詩編を歌う際のメロディー(曲名)が、「はるかな沈黙の鳩」と特定されています。それがどんなメロディーだったのかはわかりませんが、詩編の中には、いくつか曲名がついたものがあります。ざっと見たかぎりですが、詩編45, 60, 69, 80篇には、「百合」という曲名が、また57, 58, 59, 75篇には「滅ぼさないでください」という曲名がついています。「はるかな沈黙の鳩」は、どうやら56篇に1回出てくるだけのようです。
最後の「ペリシテ人がダビデをガトで捕らえたとき」という文は、後の時代の詩編の編集者が付けた説明文ではないかと考えられています。聖書箇所としては、サムエル記上21章11-16節に、ダビデが「サウルから逃れて、ガトの王アキシュのもとに行った」エピソードが記されています。ただし、その箇所では、アキシュの家臣たちがダビデの勇者としての評判を知っていたことで、ダビデは身の危険を感じて、「人々の前で奇妙な振る舞いをし、捕らえられると気がふれたように見せ、町の門の扉をかきむしったり、ひげによだれを垂らしたりした」と書かれています(14節)。その甲斐あってか、アキシュがダビデを捕らえる事を拒んだため、ダビデはすぐに解放されたようです(15-16節、22章1節)。要するに、ダビデがガト王アキシュの前で気がふれたように偽装している間に、この詩編を読んだとは考えられませんので(そんな暇はない)、この詩編の内容と、サムエル記上21章の敵の手に捕らえられた状況が重なると考えた編者が、標題に説明を加えたのでしょう。
神への信頼
5節と、11-12節は、聖書教会共同訳では「リフレイン/折り返し」のように、前後に行間を開けて、一段下げて印刷しています。
神によって、神の言葉を賛美します。
神に信頼し、恐れることはありません。
肉なる者が私に何をなしうるでしょう。(5節)
月本昭男氏は、5節の最初の部分を「私がそのみ言葉を賛美する神に」と訳して、次の行の「神に信頼して」に掛けて訳します(『詩篇の思想と信仰3』新教出版社、2011年、77頁)。
私がそのみ言葉を賛美する神に、
神に信頼して、私はおそれない。
肉なる者が私に何をなしえよう。
もうちょっとヘブライ語をちゃんと勉強しないと、両者の訳の違いがうまく説明できそうもありませんが、頑張ってみます。形としては、上段で5節を3行に分けて書きましたが、ヘブライ語聖書の記号に従えば、その2行目の終わり「恐れることはありません」の部分で、ちょうど節が半分に区切られていて、前半は「ベーローヒーム」(接頭前置詞ベ+エローヒーム)が繰り返されます。
ベーローヒーム(神に) アハッレール(私は賛美する) デバーロー(その言葉を)
ベーローヒーム(神に) バータッハティー(私は信頼する) ロー イーラー(私は 恐れない)
2回目のベーローヒームは、続く「私は信頼する」の目的語(神に信頼する/神を信頼する)という繋がりですが、1回目のベーローヒームは、次の単語「私は賛美する」の目的語がその次に続いて「その言葉を」とあるので、つながりが悪いということでしょう。1回目も2回目も、全く同じ形なので、アハッレール・デバーローを「神」を説明する部分と理解して、「私がその言葉を賛美する神に」と訳し、「その神に私は信頼する」と続けるのが自然なのだと思います。つまり、5節の前半部分の中心は、「私は神に信頼し、恐れない」という部分です。その部分を分かりやすく表記すると以下のような感じでしょうか?
「私がその言葉を賛美する神に、(その)神に私は信頼し、私は恐れない。」
涙の革袋
いずれにせよ、ここで詩人は、神に信頼することと、御言葉を賛美することを結びつけています。この「御言葉」(デバーロー:その/彼の言葉)は、神の約束の言葉であり、それは律法の書などに描かれる神の姿を背景にしています。56篇では、9節に「私の涙をあなたの革袋に蓄えてください。あなたの記録にはそうするように書かれていませんか」とありますが、この最後の部分(ハ・ロー べシフラーテハー)は、「あなたの書においてはそうではありませんか?」というような意味です。ちなみに、べシフラーテハーは、接頭前置詞べ(において)+セーフェル(書/記録)+人称語尾テハー(あなたの)です。最初の「ハ」は疑問符で、クエスチョンマーク(?)だと考えれば分かりやすいでしょうか。この「あなたの書/記録」が具体的に何を指すかははっきりしませんが、前半部分に書かれている、神が「私の涙を…革袋に蓄えて」くださることが、聖書描く神の姿であるという確信が表明されています。聖書の神は私たちの涙(苦しみ/悲しみ)を知っていてくださる方なのです。
そういえば、ヨハネ黙示録には、神の救いが完成するとき、新しい天と新しい地が創造されて天から神の都が降ってくるときに、神が私たちの涙を拭ってくださると書かれています(黙示録21:3-4)。
月本氏は、詩編56篇の描写の背景に、アブラハムの家を追放されることになって、「パンと水の入った革袋を背負い、幼い子供の手を引いて荒野をさまよった」ハガルが、「荒野で声を上げて泣いた」という創世記21章14-21節の記事を示して、ハガルが「神の憐れみ(「共感」)という革袋を涙で満たした最初の女性となった」と説明し、そこから、この詩編の詩人が「元来、女性であった」可能性を示唆します。含蓄の深い読みだと思います。男性中心(男尊女卑)の古代社会において、女性の声が反映されている詩編だとすると、より一層意味深いですね。
古代世界では(その後もずっと?)、「強さ」を男性的な価値として重んじ、「弱さ」を女性的なものとして低く評価してきました。この社会によって規定される「男らしさ」「女らしさ」といったジェンダーの価値判断は、現代においては問題視されるようになりましたが、聖書が書かれた時代には、旧約の時代も新約の時代も、当然のこととして前提されていたようです。そうした世界にあって、聖書は、神が苦しみ涙する者と共に歩んでくださる方であると告げます。出エジプトの出来事でも、強制労働に苦しむヘブライの民について、神はその苦しむ様を「つぶさに見、追い使う者の前で叫ぶ声を聞いて、その痛みを確かに知った」と語り、いたたまれなくなって、「私は下って行って、私の民を…救い出」すと告げています(出エジプト3:7-8; 参照2:23-25)。
パウロもまた、何事にも動じない強さが美徳とされた時代にあって、宣教活動において経験した苦しみを列挙し、「誰かが弱っているのに、私も弱らずにいられるでしょうか。誰かがつまずいているのに、私が心を痛めずにいられるでしょうか」と問いかけています(2コリント11:29; 参照11:23-28)。キリストのゆえに「弱さを誇る」(2コリント12:5,9-10)と宣言するパウロは、この涙する者と共に歩む神の憐れみ深さを、自らの者として受け取っていたのでしょう。私たちもそうでありたいと思います。