nakayama-holinessのブログ

日本ホーリネス教団中山キリスト教会の公式ブログです。

2021年1月7日 祈祷会の学び(詩編77篇)

2021年最初の祈祷会の学びです

 先ほど終了した1月7日の祈祷会の学びのライブ配信動画を、ブログでも提供いたします。

 


2021年1月7日 祈祷会の学び

 

個人と共同体/民族・目に見える現実と歴史/過去の記憶

 本日の中山教会の聖書通読箇所は、詩編77篇です。 詩人の苦難(個人的経験・目に見える現実)に対して、イスラエルの民をエジプトから導き出してくださった神の憐れみの御業の思い巡らし(共同体/民族の経験・過去/歴史の現実)が、希望の根拠となってこの詩人を支える、という内容の詩編です。

 77篇では、詩人の苦しみは具体的に述べられていません。敵が取り囲んだ、罠を仕掛けた、偽りの証言で陥れようとしているとか、病いに苦しんで、陰府に落ちそうになっているなど、他の嘆きの詩編に描かれる典型的な表現は見当たりません。その代わりに、5節には「あなたは私のまぶたを閉じさせず」とありますので、詩人が苦難の中で眠れぬ夜を過ごす状況が神によることが窺えます。また8-10節には、「わが主はとこしえに捨て置き/もう二度と顧みてくださらないのか。/主の慈しみは永遠に失われ/約束は代々にわたって絶たれてしまったのか。/神は恵むことを忘れ/怒りのあまり憐れみを閉ざされたのか」とありますので、その詩人の苦難が、神の怒りによる関係の切断として読み取れます。さらに11節では、「いと高き方の右の手が変わること/これこそ、私の痛み」とありますので、神の側の変化とも受け取れます。

 詩人は、苦難の中で眠れぬ夜を過ごしながらも、人からの(安易な?)「慰めを拒む」(3節)一方で、神に向かって「私の声よ、神に届け。/私は叫ぶ。/私の声よ、神に届け。/神は私に耳をかたむけてくださる」(2節)と、神に訴え続けます。なんとなく、それまで自分を祝福してくださっていた神が、突然、手のひらを返したように自分に襲いかかってきたと感じ、苦難の中で神に訴えるヨブの姿と重なりますが、どうでしょう?

 この詩編の転換点は、詩人がこの苦難の中で、「主の業を思い起こそう。/いにしえからのあなたの奇しき業を思い起こそう。/あなたの働きの一つ一つを唱え/あなたのなされた業を思い巡らそう」(12-13節)と、自分に語りかけているところでしょう。詩人は、4節では「神を思い起こし、呻き、思い巡らそう」と自分に語りかけ、6節では「私はいにしえの日々を/とこしえの歳月を思う」と語りますが、そこでは、どちらかというとその「思い巡らし」が8-10節の嘆きを導入していることから、自分の過去に経験した神の憐れみ深さ/慈しみを思い起こして現在の苦難と比較することが、神が「怒りのあまり憐れみを閉ざされた」との嘆きに繋がっているようです。ただし、「閉ざされたのか?」という問いの形なので、「そうではない、閉ざされてはいないはずだ」という詩人の期待も読み取れるかもしれません。

 いずれにせよ、最初は過去を思い起こすことが嘆きとつながっているのに対して、12節以降は、思い起こす内容が、個人の経験を超えて、イスラエルの歴史に働かれる神の御業に移行します。具体的には、16節で神が「その腕をもってご自分の民を/ヤコブとヨセフの子らを贖われた」、21節で「あなたはモーセとアロンの手によって/ご自分の民を羊の群れのように導かれた」と語っていることから、14-21節が基本的に出エジプトの出来事を描いていることがわかります。その上で、17-20節の言葉遣いを見ると、大水、深い淵、雨雲、雷雲、雷鳴、稲妻など、天地創造を意識させる用語や表現が集中していますので、出エジプトの救いの出来事が単独の出来事というよりも、天地創造の神の御業と重ね合わせて表現されていることがわかります。ちょっと格好良く言えば、救済論と創造論が相互に浸透し合う、という感じでしょうか?

 さらに、4-11節では、詩人の思い起こし/思い巡らしは、自分自身に対する語りかけですが、12-21節の思い起こし/思い巡らしでは、詩人は神に向かって「あなた」と呼びかけていますので、自分自身への語りかけを突き抜けて、神に向かって叫ぶ声(1節)と重なります。神の救いの業を思い起こすことは、神との共同作業とも言えるでしょう。あるいは、詩人が8-10節で「失われ…閉ざされたのか」と嘆いた、まさにその神の「慈しみ」と「憐れみ」に導かれた作業、と言えるかもしれません。

 ちなみに「思い起こす」はヘブライ語でザーカルですが、アドヴェントの期間によく耳にしたバプテスマのヨハネの父ザカリア(=ゼカリヤ)は、この動詞ザーカルと、神名ヤハウェの短縮形ヤーが合わさったもので、「主は覚えていてくださる」という意味になります。(ルカによる福音書ギリシア語で書かれているため、ザカリアはギリシア語の綴りを正確に反映していますが、元はヘブライ語なので、個人的にはゼカリヤでも良いと思うのですが、、、。)

 詩人の個人的な苦難の嘆きは、神の天地創造出エジプトに表されている神の慈しみと憐れみを思い起こし、思い巡らすことによって、信頼へと変わって行きます。一瞬にして嘆きが雲散霧消するわけではないでしょう。時間がかかり、幾夜も苦しみながら思い起こすことで、次第に嘆きが信頼に変わっていくのだと思いますが、それでも、この思い起こし/思い巡らしが、この詩人を支えるのです。

民族主義への警戒

 ところで、詩編77篇はイスラエルの民に対する神の憐れみと慈しみが、詩人の信仰の根拠になっていますが、個人と民族の関係は、気をつけないと間違った民族主義に落ちていく危険を孕んでいます。詩人の信仰は、あくまでもエジプトでの苦役に苦しむヘブライの民、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫を、神が憐れんで救い出したという、神の憐れみと慈しみに焦点を合わせています。そこから切り離された形でイスラエル民族の優秀さや力、栄光というものを根拠に、詩人が個人の誇りや自尊心を取り戻す、という内容ではありません。近年、世界の各地で「〇〇ファースト」や「Make 〇〇 Great Again!」というような浅薄な民族主義が蔓延していますが、それは他民族を蔑んだり見下すことで、自分が勝ち誇ったような気持ちになるという、極めて危険で間違った民族意識です。私たちの信仰の根拠は、虚栄心ではなく、神の憐れみと慈しみであるはずです。この点を読み違えると、聖書は特定の民族を優先するような危険な思想に捻じ曲げられてしまいますので、警戒が必要です。

 

あまり当てにならない予告?

 祈祷会の学びをお休みしたイヴ礼拝の日(12月24日)と大晦日(31日)は、それぞれ通読箇所が詩編63篇と70篇でしたが、近日中にブログで少しだけ取り上げたいと思います。

宗教法人日本ホーリネス教団中山教会・ 〒273-0024 千葉県船橋市二子町604-1・ 牧師:河野克也 Katsuya Kawano