nakayama-holinessのブログ

日本ホーリネス教団中山キリスト教会の公式ブログです。

2021年1月14日 祈祷会の学び(詩編84篇)

1月14日(木)の祈祷会の学び動画です

 先ほどライブ配信した祈祷会の学びの動画を、ブログでも提供いたします。聖書箇所は詩編84篇です。

 


2021年1月14日 祈祷会の学び

 

工事の音が、、、

 ちょうど大規模修繕の工事期間にかかってしまい、途中、外壁の補修でかなり耳障りな音がする場面がありますが、ご容赦ください。来週はもう少し静かに配信できると思います。昨日は朝から夕方まで、かなりうるさかったので、今日のライブ配信をどうしようか迷ったのですが、事前にアナウンスできていないこともあり、そのままいつも通り行いました。工事が始まる時間の前に、事前収録して、配信時間を指定してみようかとも思ったのですが、今一つやり方がわからず、調べているうちにかなり早い時間から音がし始めたので、事前収録は諦めました。10時になって静かになったので、しめた、と思ったのですが、25分くらいからまた音がし始めました。単に休憩時間だったのでしょうね。

 

詩編84篇:バカの谷?

 詩編84篇は、『新聖歌』の巻末にある「交読文」26番に収録されていることもあり、馴染みの深い詩編だと思います。7節にある「嘆きの谷」は、訳が困難な表現のようです。ライブ配信では、最初うっかり間違えて、古い新改訳と言ってしまいましたが(すぐ、確認して修正しました)、口語訳聖書の訳(6節)では、「バカの谷」となっています。元のヘブライ語が「オーヴェレー ベエーメク ハバーカー マアヤーン イェシートゥーフー」となっていて、その部分を地名と取ったということでしょう。この「バーカーですが、音としては口蓋垂音という分類で、喉の奥を震わせて発音するのですが、カタカナで「バカ」と表記してしまうと、どうしても日本人には別の意味の言葉(馬鹿)を想像させてしまい、始末が悪い事態になります。それを避けるため、ということでもないでしょうが、新改訳聖書は以前の版も2017も「涙の谷」と訳し、新共同訳も聖書協会共同訳も「嘆きの谷」と訳します。これには、ヘブライ語の単語の解釈が関係しているようです。

 聖書通読箇所が詩編になって以来お世話になっている月本昭男先生の『詩編の思想と信仰』(第Ⅳ巻、新教出版社、2013年、135頁)では、「バカーの谷」と訳していて、その説明は以下のようになっています(138頁)〔以下、引用〕:

バカーの谷 バカーは「茂み」(サム下五23-24)、バルサム樹ともいわれるが、バルサムはヘブライ語でボーセム(/べセム/バサム)(雅歌四14他、新共同訳「香り草」)がふつう。ベケーと読めば「嘆き」(七十人訳)。

 

 つまり、バルサム樹と理解するのは困難という立場です。ベケーという読み替えも、可能性としてはありでも採用するのは困難、というわけで、音をカタカナ表記にしています。

 

 もう一つ、1990年代に始まって幻のように消えてしまった日本キリスト教団・宣教委員会の「リーフ・バイブル・コメンタリーシリーズ」というものがありましたが、その『詩編注解』(1992年)を書いた勝村弘也先生の説明(210頁)では、「バルサム樹の谷間」と訳していて、以下のように説明されます(212-13頁)〔以下、引用〕:

…「バルサム樹の谷間」は、ふつう「バカの谷」と訳されるが、このような名前の谷がどこにあったのかは不明である。ヘブル語のバーカーは「泣く」「涙を流す」「滴らせる」を意味する動詞のバーカーと関連するように思われる(七十人訳、ヴルガタ訳等の古代語訳はいずれもこのような解釈をする)。しかしこれは木の名前だとする説もある。乳のような白い樹液を切り口から滴らせるバルサム樹が考えられたのである(サム下5章23節以下参照)。バルサム樹がたくさん生えていたのでバカの谷と呼ばれたのであろうか。バルサム樹は乾燥地にしか生育しない。<水>を連想させるこの木の名称とはうらはらに、実際にはバカの谷はからからに乾燥した水のない場所だったと想像される(REVは、the waterless valleyと訳す)。…

 

 前段の月本先生は「嘆き」という意味のベケーに読み替える可能性を紹介していましたが、勝村先生の方は、その関連の「滴る」という意味に注目して、バルサム樹と結びつけています。その上で、「滴る」水のイメージと、乾燥地にしか生育しない現実を対比させているわけです。このイメージの対比は、巡礼者の旅路の様子を想像させます。勝村先生の説明(213頁)を紹介すると〔以下、引用〕:

…次のように解釈しても良いのではないかと思われるーー巡礼たちは乾燥しきったバカの谷を通っていったのだが、バルサム樹の木陰で休息し、皮袋の中に残された水をみんなで分け合って飲んだ。神の家をめざすというひとつの目的で結ばれた巡礼者たちは、ここで水を連想させる地名を聴いただけであったが、あたかも泉があったかのように力をえてふたたびシオンをめざして歩いていったのだ、とーー。

 

 その上で、11-13節の段落で、勝村先生は、巡礼の旅路の「歩行の意味が単なる場所の移動ではなく<人生の歩み>という比喩的な次元に推移していること」を指摘します(214頁)〔以下、引用〕:

…7〜8節では巡礼の歩みが想起されたのだが、この段落では「悪者の天幕を渡り歩く「正しく歩む者たち」について語られることになる。逆にこのことによって、乾燥した谷間を渇きに苦しみながら歩む巡礼の旅路に関する描写もまた新しい意味を獲得する。ーーいのちの神に向かって進む者は、困難の中にあってもなお疲れを知らず、恵みが泉となって湧きあがるのだというようにーー。

 

 このイメージの転換/拡大については、月本先生も次のように説明します〔以下、引用〕:

 巡礼者はシオンに至る道すがら、それまでの人生を顧みる。だが、神殿の中庭に佇み、「神にまみえる」とき、彼はそれまでのすべて(「私が選んだ千日」)をこえる聖なる時を体験することになる。その中で、人生のあらゆる事柄はいったん相対化され、神の恩寵に生かされている自己に気づかされる。そして、そこから新たな日常が、神に「信頼する」日常の歩みが、始まるのである。

 

 このように読むと、毎週の礼拝(年に3回の巡礼祭だけでなく?)が、私たちの困難な日常にあっても力を与え、神に信頼する新たな日常を生み出していると言えそうです。

 緊急事態宣言が再び出されて、会堂に集まっての礼拝がまたできなくなりますが、物理的には離れていても、礼拝によって神の恵みに生かされることを覚えて、日々、神に信頼して歩みたいですね。

 

補足:9-10節の嘆願

  この段落(標題を節に数えない口語訳、新改訳では8-9節)では、唐突に神への嘆願が出てきます。神に「油注がれた者」は、王や祭司、またメシアを指す表現ですが、月本先生はこの部分を「後代の二次的挿入」と見て、「ダビデ王朝の再興を実現する、来るべき民の指導者(メシア)がここに待望されているともみられよう」と説明します(143頁)。その一方で、勝村先生は、この詩編の背景に秋の仮庵祭を見ることで、この部分を「王へのとりなしの祈り」(213頁)と読み、自然なつながりを想定します。つまり、仮庵祭は、「王国時代には神がシオンの町とダビデ王家を選ばれたことを祝う祭りと結合していた」とするクラウスの説を参考に、「王国時代に神殿にたどり着いた巡礼が、イェルサレムの町の平安を祈ったり、この町の支配者に神の加護を祈ったりしても別に不思議はないであろう(詩編122篇参照)」と説明します(214頁)。

 個人的には、詩編というジャンル自体、長きにわたって神殿祭儀で朗唱されるという性格の文書ですから、時代の変遷とともに、文言が変更されたり挿入されたりしても、おかしくはないと思います。古代イスラエル王国は、ダビデ王によって統一王国が成立し、エルサレムが都に定められ、息子ソロモンによってエルサレム神殿が建設され、繁栄を極めますが、ソロモンの死後に南北王朝に分裂、北イスラエルは紀元前8世紀後半にアッシリア帝国によって滅ぼされ、南ユダは紀元前6世紀前半にバビロニア帝国によって滅ぼされます。そのような危機を経験する中で、信仰を支え続けてきた巡礼歌に、その危機の中での嘆願が加えられたと考えることも自然だと思います。もちろん、9-10節の内容は、それほど切迫した様子で具体的なことを述べているわけではありませんから、勝村先生が言うように、王国時代の巡礼に際してのとりなしの祈りと見ることも十分可能でしょう。それでも、9-10節を飛ばして読むと、とてもスムーズに繋がる気がしますので、この部分はやはり、なんとなく唐突な感じがします。詩編は、時代の変遷とともに変化成長しながら、人々の信仰を支えたという特徴があると思いますので、「後代の二次的挿入」だとしても、それが神の導きによるものであり、それもまた神の霊感によると考えて良いのではないでしょうか。

 

ついでに…

 バルサムについては、ウィキペディアを見ると、以下のように説明されています:

バルサ (英語: balsam [ˈbɔːlsəm] ボールサム) は、樹木が分泌する、樹脂が揮発性油脂に溶解した、粘度の高い液体。強い香りがある。

バルム (balm [bɔːm, bɔːlm])、オレオレジン (oleoresin)、含油樹脂

バルサムを分泌する樹木をバルサム樹と呼ぶ。バルサム樹は特定の種や分類群ではない。松脂バルサムの一種である

 

 いろいろ辿っていくと、英語記事の「ギレアドバルサム」(balm of Gilead)に聖書での言及が紹介されていたり、バルサム樹の括りに入るウルシ科のカイノキ属(pistacia)の樹木として、「テレビンノキ」(terebinth:英語記事)やピスタチオが紹介されていたりと、なかなか面白かったです。ピスタチオまでくると、樹脂というよりもジェラートを想像してしまいます。もうちょっとちゃんとした聖書植物事典で調べても面白いかもしれませんね。

宗教法人日本ホーリネス教団中山教会・ 〒273-0024 千葉県船橋市二子町604-1・ 牧師:河野克也 Katsuya Kawano