2月11日の祈祷会の学びの動画です
先ほど終了した祈祷会のライブ配信動画を、ブログでも提供いたします。本日の中山教会の聖書通読箇所は、詩編112篇です。
詩編112篇
この詩編は、冒頭の「ハレルヤ」に続いて、22行ある各行の最初の単語がヘブライ語アルファベットの順番で、アレフ(a)、ベート(b)、ギメル(g)、ダレット(d)、…と続く「アルファベット詩」です。節としては、1-8節が2行づつ、9-10節が3節づつという構成です(どうせなら、11節までにして、すべて2行づつにしてくれれば綺麗なのに、と思ったりもしますが、言っても仕方ないでしょうね)。これは、一つ前の111篇も同じです。
ちなみに、ヘブライ文字を英語のアルファベットで転写すると、こんな感じです。
(1) hallu yah
ashre-ish yare et-yhwh,
bemitzwotaw chafetz meod.
(2) gibbor baaretz yihyeh zaro,
dor yesharim yevorakh.
*「c」はどこへ行った? 何で「g」が3番目なんだ? など、ヘブライ語のアルファベットに関する疑問はさておき、アルファベット順に単語を配列するということで、かなり技巧を凝らした詩編ですので、作者の教養・訓練のレベルは相当なものだったことがわかります。
聖書通読箇所が詩編になって以来お世話になっている月本昭男先生の『詩篇の思想と信仰』第5巻の解説によると、「アルファベット詩には教訓的な内容の作品が目立〔つ〕(詩34、37、112、119篇など)」ということです(『詩篇の思想と信仰 Ⅴ:101篇から125篇まで』[新教出版社、2020年]192頁:111篇の解説)。112篇は、このアルファベット詩の特徴を備えていて、「『ヤハウェをおそれる人』のさいわいを詠う、教訓色の強い知恵の詩篇」と評価されます(同書、203頁)。
これに対して111篇は、「10節1-2行目などに知恵文学的な詩句が見受けられる。だが、『私は心を尽くしてヤハウェを讃えよう」とはじまり、『かれ(=ヤハウェ)への讃美はとこしえに立つ」と締めくくられる本詩は、全体として、ヤハウェ讃歌として編まれている」(同書、192-93頁)ということで、特殊な例なのかもしれません。
正しい人と悪しき人
この112編は、短い詩の中で技巧を凝らしている分、メッセージはシンプルだと思います。「正しい人」と「悪しき者」の対比が中心で、正しい人は栄え、悪しき者は滅びるという、わかりやすい二分法が全体を貫いています。この「正しい人」には、「主を畏れ/その戒めを大いに喜ぶ人」として「さいわい」が告げられます(1節:ashre =「幸いだ」)。より具体的には、この人物の正しさは、経済的な憐れみ深さとして描かれていて、神によって祝福されて与えられた「富と宝」(3節)を、「恵みに富み、貸し与え」て(5節)「貧しい人には惜しみなく分け与え」る(9節)と詠われます。この憐れみ深い行為・生き方が、神の祝福につながり、子々孫々「正しい人々として祝福される」(2節)一方で、社会的な評価にも繋がり、この人は「正しき人としてとこしえに記憶される」(6節)と言われます。
これに対して、「悪しき人」の方は、正しい人の繁栄を妬み、「それを見て怒り/歯ぎしりして消え去る」(10節)と言われます。この悪しき人は、「正しい人」の「敵」と呼ばれていますが(8節)、おそらく、この人に対する「悪評」(7節)を拡散するような妨害を行なっているのでしょう。人間の妬みとは恐ろしいものですね。この辺りから判断すると、「悪しき人」の「悪」の中身は、おそらく「正しい人」の「正しさ」と対極的な、自分の利益を求めるような強欲さ、また世間からの評判を求めるような名誉欲といったあたりが想定されます。
この点では、単純明快な「勧善懲悪」、あるいは「因果応報」の思想を描いているように見えるかもしれません。しかし、月本先生によれば、この詩編112篇の特徴は、「律法の遵守を因果応報の『因』に据え…、しかも、貧しい同胞への支援にヤハウェの『命令を悦ぶ』行為の典型をみようとする」ことで、「律法遵守を困窮者の支援という一点に絞り込んだ」所にあります(同書、205頁)。この辺りは、エジプトの奴隷生活からイスラエルの民を救い出した神の憐れみ深さが根底にあり、その神との契約関係に生きるイスラエルの生のあり方を、神の憐れみ深さに倣うものとして定めた律法が、祝福の基準だという考えをよく反映していると思います。
イスラエルの律法の特徴
この生活困窮者への支援が律法の中心であり、イスラエルの神の姿を反映するということについては、月本氏は、必ずしもイスラエルの専売特許ではなく、古代西アジアに共通の考え方だったことを指摘し、『ウル・ナンマ法典』(紀元前2100年頃)の前文や、バビロニアの主神マルドゥクに捧げた祈祷文書を引用します(同書、206-208頁)。それでも、古代西アジアの思想では、こうした「社会的に弱い立場に立たされた人々の保護はもっぱら王の任務と考えられていた」のに対して、「古代イスラエルの律法によれば、社会的弱者の保護の責務は神ヤハウェからの命令として、王にではなく、イスラエルの成員すべてに課された」こと、しかも、寄留の外国人が社会的に保護すべき人々に加えられている(出22:20-26; レビ19:9-10,13-14; 24:10-22他)」ことにおいて際立っているとします。さらに、「このような社会的弱者保護の定めには、その都度、イスラエルの民がかつてエジプトで寄留者であり、奴隷であったがゆえに、という歴史的な理由づけが伴った(出22:20; レビ19:34; 申24:18,22)」ことも特徴だということです。
聖書の中心的な思想は、こういったところに読み取れるのですね。主イエスの教えもまた、この理解を反映しているのではないでしょうか。
本の宣伝
こうした聖書の思想の中心を理解するのに、とても良い本が出版されました。ニュージーランドの新約学者でメノナイト派に属するクリス・マーシャル氏の小書『聖書の正義:イエスは何と対決したのか』、片野淳彦訳(いのちのことば社、2021年)です。訳者は私の友人で、著者も訳者も、時期はズレますが同じ米国インディアナ州エルクハート市の神学校(平和学修士過程)で学んでいます。(ちなみに、私は同じ神学校の修士課程の神学研究専攻で、ちょうど著者と訳者の間の時期に留学していました。3人とも1990年代に同じ神学校で学んだのですが、残念ながら重なっていないという、ニアミスです。)
この本は、原書では75ページほど、邦訳でも128ページと、比較的短く読みやすい本ですし、価格も税込1430円と手頃ですので、多くの人に読んでいただきたいと思います。
本の予告
また私自身も、このテーマに関連して、翻訳出版の準備を進めている本があります。メノナイト派の旧約学者ペリー・B・ヨーダー氏の『シャローム・ジャスティス』(仮題)ですが、こちらも、同じように社会的弱者保護を聖書の中心的思想として強調しています。今年の夏あたりには出版できるように頑張ります。