nakayama-holinessのブログ

日本ホーリネス教団中山キリスト教会の公式ブログです。

2021年3月11日 祈祷会の学び(詩編138篇)

本日の祈祷会の学びの動画です

 先ほど終了した祈祷会の学びのライブ配信動画を、ブログでも提供いたします。


2021年3月11日 祈祷会の学び

 

138篇と137篇

 138篇は「ダビデの詩」という標題がついていますが、内容から具体的な状況・背景はあまり多く読み取れない詩のようです。どちらかというと、様々な状況、様々な時代、様々な地域にあって、信仰者が自らの状況をあてはめて朗唱しやすい詩として整えられたものなのでしょう。それでも、いくつかの点で、異教の地にあって遠くエルサレムの神殿の丘を思いながら歌った歌という理解ができそうです。1つ目は、1節の最後に出てくる表現です。

  私は心を尽くしてあなたに感謝し

  の前で、あなたをほめ歌う

とありますが(目立つようにここでは太字にしました)、聖書協会共同訳(旧:961頁)では2行目の「神」の右肩にアルファベットの「a」が付いています。ページ中程にある引照・注欄の左の方に、a 別訳「神々」と書かれています。ヘブライ語では「ネゲド・エローヒーム」です。なぜ訳が分かれるかというと、「エローヒーム」は、神という意味の単語エール(単数形)の複数形なので、そのまま訳せば「神々」となるのに対して、聖書では天地創造の神(1人の神)を指して複数形のエローヒームが規則的に使用されていることから、その神を指していると理解すれば、形の上では複数形であるにもかかわらず、この単語を単数形で「神」と訳すことになるのです。ですから、単数形で「神」と訳すと天地創造の聖書の神、複数形のまま「神々」と訳すと、それは聖書の神以外の異教の神々を指していることになります。さあ、どちらでしょう?

 単数形の場合、「神(聖書の神)の前で、あなた(聖書の神)をほめ歌う」となり、ちょっと変ですね。「あなた(聖書の神)の前で、あなたをほめ歌う」となっていればスッキリですが、「神」と「あなた」が別のような感じで並んでいます。

 これに対して、複数形の場合には、「(異教の)神々の前で、あなた(聖書の神)をほめ歌う」となり、スッキリします。そうなると、歌われている情景は、外国の神々がひしめいている中で、信仰者が自分の信仰を曲げず、聖書の神に対して「あなた」と呼びかけながら礼拝している、ということになるでしょう。この情景は、バビロン捕囚まもない頃の生々しい苦悩を歌っている、一つ前の137篇との繋がりもはっきりします。(もちろん、もともとは138篇はあまり具体的にバビロン捕囚を背景に成立したものではなく、より一般的な仕方で異教祭儀の圧力を感じる中で歌われたものだったのが、後に詩編集に編纂される中で、137篇の後に置かれたことで、そのつながりの中でバビロン捕囚を意識して読まれるようになった、という可能性もあると思います。)

 いずれにせよ、聖書時代のイスラエルの民は、エジプトで目障りなマイノリティーとしてヘイトの対象となり、奴隷生活を強いられていたところから、神の憐れみによって救出されたことが、そもそもの始まりですので、138:6にある「低くされた者を顧みる」神を体験的に知っている人々です。この経験から、「低くされた」自分たちを「高くおられる」ところに引き上げてくださる神の救いを希求することが、彼らの信仰の中心となります。

 6節の1行目にある「高い・低い」の対比は、高く引き上げてくださる神の救いへの期待と信頼を表現します。2行目の「遠くから、高慢な者を見抜かれる」は、他の人々を「低く」見下し、虐げている者たちが、自分では「高く」いると思い上がっているにもかかわらず、天において「高くおられる」神からは「遠く」離れて低い位置にいることを皮肉を込めて表現しているようにも読めますね。この高慢な者に対して、主が「遠くから…見抜かれる」という表現は、物理的に遠いというよりも、彼らが主の御心から遠く離れている様子を描いています。

 神は、「苦難の中を歩んで」いる「私を生かし…敵の怒りを防ぎ…救ってくださる」方なのです。

 

3月11日

 本日は、東日本大震災から10年の節目の日です。「節目」と言っても、それで区切りがつくわけではありませんので、継続する苦難の中にいる方々を覚えたいと思います。詩編138篇は、(少なくとも現在の聖書の位置関係では)137篇の生々しい苦悩の叫びを受けて読むと、少し時間が経過して落ち着いた状況にも読めます。異教の神々の神殿がひしめく中で、異国の王たちの栄枯盛衰(アッシリア→バビロン→ペルシャ)を見ながら、変わらず世界を治めておられる神に信仰を告白し、賛美を捧げる様子が読み取れるのです。この変わらない神は、「低くされた者を顧みる」神です。

原発事故

 人間は(特に権力者は)、自分に都合の悪い事実を消し去り、表面を取り繕って解決を偽装します。東日本大震災の避難者は現在も4万人以上いると報道されますが、原発事故によって避難を余儀なくされた人たちの場合、「除染が済んだ」ということで政府による強制避難の指定が解除されると、支援が打ち切られて避難者の数として数えられなくなるようです(「きっこのメルマガ」の記事参照:https://www.mag2.com/p/news/489529)。除染についていえば、そもそも一般人の公衆被曝限度が年間1ミリシーベルトなのに対して、避難指示解除の基準は年間20ミリシーベルトですので、いわば胸部レントゲン検査室の中などの放射線管理区域内で飲み食いし、寝起きして、日常生活を送ることを強いるような馬鹿げた、というより無責任な政策、ということです。原発事故以外の地域(岩手県宮城県)では、震災による直接死(死亡者数+行方不明者数)に比べて「震災関連死」の数が1割以下なのに対して、福島県の場合は「関連死」の方が直接死を上回っており、しかも今だに年間数十人の方々が亡くなっていることから、強制移住や「自主避難」の影響が指摘されます(上述のメルマガ記事)。これは忘れてはならないことだと思います。

 除染といっても、住居の周りは除染しても山などは除染しませんので、実際に除染作業が行われたのは全体の15%にとどまるようですし、除染しても雨風等の環境内での移動によりホットスポットが各所に存在したり、また残念ながら一度除染した場所が再汚染することもあるようです。ということは、なるべく正確に安全な場所と危険な場所を把握するためには、放射線量を測定する地点を多く設定して継続して測定することが必要ですが、どうやら政府はこの測定地点を大幅に減らすようです(https://www.nsr.go.jp/data/000224268.pdf)。線量が十分に下がったから、ということが理由として挙げられていますが、そもそもモニタリングポストを設置する段階で、その周囲の表土を入れ替えて(つまり除染して)設置していますので、線量が低く出るという面もあると思います。(その他、除染が悪徳ビジネスの温床になっていたことも様々に報道されています。)除染に関する問題点は、国際NGOグリーンピースが報告書をまとめ、さらに廃炉計画に対しても問題点を指摘し、提言をしています:

https://www.greenpeace.org/japan/nature/press-release/2021/03/04/50468/

 また、つい先日報道された国連科学委員会による原発事故の影響に対する報告も、日本政府側のデータのみに基づいており、複数存在する独立した検査結果を無視したものとして、問題点が指摘されています:

https://news.yahoo.co.jp/byline/itokazuko/20131027-00029263/

 報道で「おや?」と思ったら、なるべく複数のソースを比較することが重要ですし、ネットで情報を得る場合にも、私自身はきちんとした機関や人物など、名前を名乗って発信している情報に目を通すようにしています。情報が錯綜する中、一つ一つ情報を確認して信頼できる情報を選び取るのは面倒ですが、そうしないと、いつの間にか怪しい情報に足元をすくわれてしまうような気がして、念には念を入れています。

「低くされた者」の視点による歴史記

 東日本大震災から10年を迎え、様々な報道がなされますが、私たちは原発事故に関連す問題についても関心を持ち続ける必要があると思います。聖書は、「救い」を単なる心の平安として語っているわけではなく、現実に抑圧から救出する神の働きとして描いているからです。祈祷会の学びの準備のために、中山教会の聖書通読箇所を読み進める中で、特に深く自覚するようになったことがあります。それは、聖書の歴史記述が、権力者の上から目線のプロパガンダではなく、「低くされた者を顧みる」神の視点、下からの視点で書かれているということです。この視点を大事にしながら、これからも聖書を読み続けたいと思います。

 

 

宗教法人日本ホーリネス教団中山教会・ 〒273-0024 千葉県船橋市二子町604-1・ 牧師:河野克也 Katsuya Kawano