先送りしていた詩編98篇の学びです
1月28日にライブ配信した祈祷会の学びの聖書箇所である詩編98篇について、遅ればせながら、短く学びを提供いたします。
この詩編は、神ヤハウェを全地の王として讃え、その御業に対する感謝の歌を歌うことを呼びかける詩編です。ヤハウェを全地の王として讃える詩編は、冒頭で「ヤハウェは王となられた」と宣言する93篇、97篇、99篇が代表的ですが、96篇10節でも同じ宣言があり、47篇3節ではヤハウェを「全地に君臨する王」と讃えます。本98篇も、6節で神を「王なるヤハウェ」と呼んでいます。
神が全地の王であるとの信仰には、いくつかの側面があります。一つは、王の権能として、弱者を守り、正義を行うということであり、これは王による正しい裁きとして表明されます。96:10でも98:9でも公平な裁きが希求され、97篇では全体として、悪を行う者に対する厳しい裁きが根底にあります。
もう一つの側面は、全地の王としての普遍的な支配です。つまり、この神はただイスラエルという一つの民族の神であるだけでなく、全世界を公平に裁き、正義をもって統治する王だという信仰です。これは、世界史的な出来事の背後にある神の導きに対する信頼また賛美の表明です。
奇しき業:捕囚からの帰還
神ヤハウェによる世界の支配は、イスラエルの歴史において、エジプトの奴隷の家からの救出とバビロン捕囚からの帰還という、二つの大きな出来事によって経験されました。お世話になっている月本先生の『詩篇の思想と信仰』では、1節の「奇しき業」(聖書協会共同訳:月本訳では「不思議なみ業」)と訳されるヘブライ語「ニフラオート」について、以下のように説明します(第4巻:352-53頁)〔以下、引用〕:
ニフラオート…は、元来、歴史におけるイスラエルの救済体験を表す述語の一つであった。出エジプトの出来事がその典型をなす(詩77:15; 78:12; 106:7; ネヘ9:17他)。…歴史上の出来事を具体的に明示しない用例も少なくないが、その場合、多くは比類なきヤハウェの権能を讃えるか、歴史におけるヤハウェの「審き」を称揚する文脈にあらわれる(出15:11; 詩9:2; 75:2他)。後期の文書になると、ニフラオートの用法は多様化し、個人の救済体験を表し(詩26:7; 40:6他)、自然現象や律法までもがそう呼ばれるようになる(ヨブ5:9; 9:10; 詩119:18他)。
本98篇では、捕囚からの帰還がこの言葉で表現されますが、それは、98:3がイザヤ52:10の引用であり、そこで表明されるように、捕囚からの帰還を第二の出エジプトとする理解によると説明されます(同書:351、353頁)。ここで強調すべき点として、月本先生は、この「捕囚からの解放〔が〕あくまでもイスラエルとの契約に真実であろうとする神ヤハウェの業であって、『悔い改め』や自己努力といった民の側の姿勢や行動とは無関係であった、との理解」を挙げます(353頁)。
確かにイザヤ書を見ると、捕囚からの帰還について、かなりきつい表現でこのことが表現されています。イザヤ48:8-11では、イスラエルが「必ず裏切ることを/母の胎にいる時から背くものと呼ばれていたことを私は知っていた」と、イスラエルの本来的な罪深さが強調され、それに対比させるように、神による憐れみと救いが、神「自らの名のため、…自らの誉のため」であること、つまり神の名が汚されないためであることが語られます。神の民であるイスラエルの側の「悔い改め」でも「自己努力」でもない、というのは皮肉な表現ですね。
この思想は、エゼキエル36章ではより鮮明に描かれます。21節では、イスラエルが捕囚の地、「諸国民の間で汚したわが聖なる名を惜しんだ」とあり、22-23節では、捕囚からの帰還という救いの業が、「あなた方が諸国民の中で汚した私の聖なる名のため」、またそれが「私の大いなる名を聖なるものとする」ことであると説明されます。強烈ですね。
詩編98篇のニフラオートは、決してエゼキエル書のような皮肉な仕方ではなく、むしろよりストレートに神の救いの業を、神の契約に対する真実また自発的な憐れみとして強調していると言えるでしょう。
全地への呼びかけ
98篇は、神ヤハウェによるイスラエルの捕囚からの帰還が、全世界の見守る中で行われたことを強調し、全地がその救いを目撃したことによって、翻ってこの神の憐れみを求めるようになることを呼びかけます。4節以降の賛美の呼びかけは、このヤハウェによる公平な裁きによる救いが、神の作られた世界の隅々にまで及ぶことを、ともに待ち望むようにとの招きでもあります。
そのように神の救いを全世界的、普遍的なものとして理解するなら、世界で起こっている様々な問題、人権侵害や紛争などについて、私たちは無関心でいられないはずです。思想や心情、宗教の違い、また人種の違いなどによる差別やヘイトに対しても、また他国の人々を劣悪な環境で働かせることによって先進国に豊かな生活をもたらすグローバルな経済的不正義も、私たちの信仰にとって本質的に重要な事柄となるはずです。私たちは、神ヤハウェを全地の王として賛美し、その公正な支配を希求するように招かれているのです。