4月29日の祈祷会の学びの動画です
先ほど終了した祈祷会の学びのライブ配信動画を、ブログでも提供いたします。
コヘレトの言葉
本日の中山教会の聖書通読箇所は、コヘレトの言葉6章です。『コヘレトの言葉』という書名は馴染みが薄いかもしれません。日本聖書協会の発行する日本語訳聖書では、新共同訳からこの書名でしたが、長らく口語訳聖書を使っていた方、また新改訳聖書をお使いの方は現在(新改訳2017)も、『伝道者の書』という書名の方が馴染深いでしょう。
岩波書店が発行する『旧約聖書』のシリーズでは『コーヘレト書』と、よりヘブライ語の音に近く表記されますが、要するにこの書のヘブライ語の冒頭の2単語「コヘレトの言葉」(ディブレー・コーへレト)をそのままカタカナにしたものが、新共同訳、聖書協会共同訳の書名ということです。
この言葉に続いて「ダビデの子、エルサレムの王」とあることから、伝統的には、ダビデの息子のソロモン王が作者と想定されてきました。現在では、ある匿名の知恵の教師が書いたと考える学者が大多数です。まあ、もともと「ダビデの子」という表現自体、直接の息子に限定されるわけではなく、ダビデの子孫を指して使われますし、新約聖書で主イエスが「ダビデの子」と呼ばれていることからも分かる通り、ダビデ系のメシアを指す称号としても使われますので、「ダビデの子」とあるからといって、ソロモンに限定する必然性はないのですが、、、。ちなみに、岩波版の訳者の勝村弘也教授は、この「コヘレト」について、「おそらく知恵の教師であった著者が用いた一種のペンネームのようなものであろう」と説明しています(『旧約聖書XIII:ルツ記 雅歌 コーヘレト書 哀歌 エステル記』[岩波書店、1998年]205頁)。とはいえ、「ダビデの子、エルサレムの王」とくれば、大抵の人はすぐにソロモン王を思い浮かべるのも事実でしょう。このあたり、実は緻密に計算された文学的仕掛けかも? そのうちじっくりと考えてみたいと思います。
「コヘレト」自体は、ヘブライ語の「集まる」という意味の動詞や「集会・会衆」という意味の名詞と同根の女性形名詞で、勝村先生によると、「これは普通『職能』『職務』を表しているからと説明される」のに対して、「『知恵』を時勢として人格化する伝統とも関係しているのかもしれない」(同頁)とのことです。ライブ配信では、うっかり「役職名でもない」と言ってしまったかもしれませんが、「職能」「職務」であれば「役職名」ということになりますね(失礼いたしました)。
メギロート
上記の岩波版の旧約聖書第13巻には5つの文書が含まれていますが、これはヘブライ語で「メギロート」(巻物:複数形)と呼ばれます。同じく勝村先生の解説(同書181-82頁)によれば、「これら5文書をメギロートとして扱う習慣は、中世のアシュケナージ系ーードナウ河、ライン河の流域からヨーロッパ大陸に広まり、特にドイツやフランスに居住していたユダヤ人ーーユダヤ教団の会堂においてそれぞれの文書が5つの祭日に朗読されたことから生じた」ということです。それぞれの文書の祭日との関係は以下の通り:
1 雅歌:過越祭(ペサハ)
2 ルツ記:七週祭(シャブオト)
3 哀歌:アブの月(現7-8月)の9日(エルサレムと神殿の破壊を記念する日)
4 コーヘレト書:仮庵祭(スコト)
5 エステル記:プリム祭
コヘレト書の「空しさ」について(宿題)
コヘレト書は、天の下に起こる様々なことを「空しい」と表現します。この鍵語については、また後ほど補足説明を試みますが、とりあえず今日はこの辺りで、、、。