nakayama-holinessのブログ

日本ホーリネス教団中山キリスト教会の公式ブログです。

2021年6月10日 祈祷会の学び(イザヤ28章)

6月10日の祈祷会の学びの動画です

 先ほど終了した祈祷会の学びのライブ配信動画を、ブログでも提供いたします。


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預言者イザヤ

 預言者イザヤは、1章1節の標題にあるように、紀元8世紀の南北分裂王朝時代の南王国ユダで、ウジヤ(前787-736年:在位は756年まで)、ヨタム(前756-741年)、アハズ(前741-725年)、ヒゼキヤ(前725-697年)に活動した人物です。〔王の在位年は「○○王の第○○年」の数え方をどう取るかで多少のズレが生じるので、一応の目安です。〕

 イザヤ6章の記述から、ウジヤ王の死(前736年)に際してイザヤが神殿で神の栄光の幻を見たことが、彼の預言者としての「召命」の中心的出来事だったことが読み取れますが、それは翻って、ウジヤ王の死がイザヤにとって危機的な出来事だったことを表していると考えられます。ウジヤ王は、列王記下15章では偉大な信仰深い王として描かれていますが(ここでは王の名前がアザルヤと表記されます)、死の20年前の在位中に「規定の病」に罹り、息子ヨタムの摂政が始まっていますので(北イスラエルの王ペカの治世第2年=前756年)、イザヤは少なくともウジヤ王の全盛期を知っていたのでしょう。イザヤがウジヤの全盛期(前756年以前)にすでに預言者として活動していたのか、それとも、かつてのウジヤの栄光の時代を上の世代の人々から聞いて知っていたのかは確定できませんが、あのウジヤ王が死んだ、という事態を神の民の重大な危機だと判断したということです。何れにせよ、イザヤがこの危機的事態に直面して、神殿で神の栄光に触れ、その危機の時代に対する神の言葉を託されたのが、6章出来事だと考えられます。つまり、6章の幻は、イザヤの預言者としての最初の証明経験ではなく、ウジヤの死という特定の危機に際して預言の言葉を託された、特別任務の「委託」の出来事だと考えるべきでしょう。

 そう考えると、イザヤの活動は、少なくともウジヤ王の死の年よりも数年前には始まっていたことになります。おそらく、紀元前722年にアッシリア帝国が北王国イスラエルを滅ぼし、南王国ユダを属国にした後に、前704年にアッシリア王がセンナケリブに代わった際には、ユダ王ヒゼキヤは、まず台頭していたバビロニアと同盟を組むことでアッシリアからの独立を目指し、それが頓挫すると、今度はエジプトと同盟を組むことでアッシリアからの独立を画策しますが、イザヤはその時に、ヒゼキヤに対して軍事同盟に頼ることを厳しく批判していますので、イザヤの活動は紀元前700年頃まで、ということになると思います。

イザヤ書の区分

 イザヤ書は、聖書学の伝統では大きく3つに区分されます。それは、1-39章(紀元前8世紀の預言者イザヤの言葉を中心に編集された部分)、40-55章(バビロン捕囚からの帰還を第二の出エジプトとして描く救済預言)、56-66章(捕囚からの帰還後の状況に対する預言集)、という区分です。第2区分を「第二イザヤ」、第3区分を「第三イザヤ」と呼ぶことが聖書学での習慣になっていますが、まあ、便宜的なものだと考えておけば良いと思います。

イザヤ書を読む文脈

 当時の預言活動について考えてみると、紀元前8世紀の預言者イザヤは、王たちの前で直接語りかけるような形でも活動していましたが、その言葉が(おそらく一部は本人によって)書き留められ、弟子たちによって語り継がれていったと考えられます。危機の時代に神から預言のことばを託されたイザヤの周りには、一定数の仲間や弟子たちがいたことでしょう。それがどのくらいの規模かはともかく、この「弟子たち」は、神は確かにイザヤに語りかけたとの確信をもって、イザヤの預言を文書にまとめたと考えられます。また彼らは、イザヤに語りかけた同じ神が時代を超えて今も語り続けているとの確信を持ち、目まぐるしく変化する時代状況に対して、自分たちにも預言の言葉を託されたとの確信のもと、その新たな状況に対する神の言葉を書き留めたと考えられます。現在の「イザヤ書」は、そうした預言者イザヤの伝統に連なる者たちが、それぞれの状況に対して語られた神の言葉を丁寧に書き留め、編集し、一つの文書にまとめ上げたもの、ということになります。ですから、預言書を理解するポイントは、それが生きた神の言葉であることを理解することと、その神の言葉を、歴史の中の具体的な危機の状況にある人々に対して意味のある言葉として語られたものとして理解することです。

具体例:インマヌエル預言

 5月20日のブログの記事と重複しますが、一つだけ具体例を挙げてみます。

 7章にある「インマヌエルのしるし」の記事は、私たちにとってはマタイ1章の記述もあって、救い主イエス・キリストの誕生の預言として馴染深いですが、もともとは紀元前8世紀のシリア・エフライム同盟の危機(紀元前733年)に際して語られた言葉です。この同盟は、迫り来るアッシリア帝国の脅威に対して、北王国イスラエル(エフライム)とそのすぐ北にあるアラム(シリア)を中心に、近隣諸国が一致団結して対抗しようとして結んだ同盟ですが、南王国ユダにもこの同盟に参加するように誘いがかかります。時のユダ王アハズはこれを拒んで、むしろアッシリアの属国として生き延びる道を選ぶのですが、イスラエルとアラムは、この同盟に参加しないユダに対して怒り、軍事侵攻を計画します。そのことを知らされたアハズ王と国民とが恐れに取り憑かれた、というのがこの「インマヌエルのしるし」の背景です(7:1-2)。この状況にあって、誕生が預言されるこの男の子は「私たちと共に〔いる〕神」を意味する「インマヌエル」という名で呼ばれますが、それは、「アラム(王レツィン)もイスラエル(王ペカ)も恐るな、神が共にいる!」という、神ヤハウェに対する信頼を呼びかける言葉でした。

 紀元前733年のシリア・エフライム戦争の危機の時代に語られたこの言葉は、その時代の人々にとって意味のある神の言葉でした。この言葉をその時代状況から切り離して、それから730年も後の時代の出来事について直接預言した言葉だと言うことは、残念ながら時代錯誤です。もしもイザヤがシリア・エフライムの危機に動揺する人たちに対して、「安心しなさい、今から730年後には救い主がお生まれになる」と語ったとしたら、聞いている人たちはどのような反応をしたでしょうか? 

 主イエスがお生まれになった時代も、大国ローマの支配下にあって危機の時代(ローマの権威を傘に着たヘロデ大王の圧政、およびその息子たちの分割統治の時代)でしたので、730年前にイザヤが告げた言葉が、本質において同じ意味を担ったとは言えるのですが、そもそも最初に語られた時の状況と意味を素通りして、主イエスの降誕の出来事と直結させるべきではないと思います。むしろ私たちは、イザヤの言葉を神の言葉として聞き、その同じ神に信頼して預言の言葉を担い、変化する時代状況の中でイザヤの預言を語り続けたイザヤの弟子たちの姿勢に倣って、預言の言葉をそれぞれの時代の状況において、神の言葉として丁寧に受け取りたいと思います。

 

イザヤのメッセージ

裁きの預言

 イザヤは、一方では国際情勢下での軍事的脅威に対して、目に見える軍事大国に頼るのではなく、ヤハウェに信頼することを要求します。それとともに、王や祭司、貴族たちが贅沢な暮らしを続け、経済格差が広がり固定化される状況に対して、それが神の御心に反することを告げ、悔い改めと方向転換を迫ります。経済的不正義については、イザヤ5章の「ぶどう畑の歌」に続く告発の言葉の中に、「災あれ、家に家を連ね、畑に畑を加える者に。/もはや土地はなくなり/あなたがただけがこの地の中に住もうとしている」という表現がありますが(8節)、これは一部の人が富と農地を独占し、多くの人が貧困に追いやられている様子を描いたものです。ぶどうの良い実を期待して手入れしたにもかかわらず、できたのは酸っぱくて食べられない悪いぶどうだった、という「ぶどう畑の歌」の言葉は、この状況を表現したものです。このように人間の罪が増大する中、イザヤは厳しい裁きのメッセージを語ったのです。

回復の預言

 それとともに、イザヤは将来における回復についても語ります。同じ「ぶどう畑」のイメージが27章では反転されて、神による回復が語られます(2-6節)。この同じイメージの反転というところが、イザヤの預言の醍醐味でしょう。同じ回復のメッセージでも、27章後半のイメージは、より政治的な描写です(12-13節)。ここでは、「ユーフラテスの流れから/エジプト川まで」や、「アッシリアの地に失われた人々と/エジプトの地に散らされていた人々が来て/聖なる山エルサレムで主を礼拝する」とあるように、時代的にはアッシリア帝国の危機が念頭にあります。具体的には、ヒゼキヤ王の晩年にエジプトとの同盟によってアッシリアからの独立を画策した時期がありましたが、その時点ではすでに20年程前に北王国がアッシリアに滅ぼされ、人口入替政策によってイスラエル王国の人たちが散らされていましたし、またこの時の独立の企てが失敗して、ユダ王国の一定数の人々がアッシリアやエジプトに散らされて行くことも想定できたでしょうから、エルサレムへの帰還のイメージは、バビロン捕囚よりも前の時代にも意味ある言葉として語られ、受け取られたと考えられます。

 ちなみに、26章の最後の部分にある裁きの預言にくっついている27章1節の預言は、より終末論的な壮大なスケールで、神に敵対する勢力をレビヤタンや竜として描き、神の最終的な勝利として救いを描いています。あるいは、このレビヤタンや竜も、具体的な大国をイメージして語られているのかもしれませんが、表現としては、別次元のスケールですね。

28章からもひとこと

 6月10日の聖書通読箇所は28章なのですが、それ以外の話が長くなってしまいました。28章からも、せめて何かひとことと思います。14-22節にある「隅の親石」のイメージは、詩編118編に出てくるものですが、どちらが先なのでしょう? イザヤ28章の方は、おそらく人々が耳を傾けない預言者イザヤと弟子たちを指すのでしょう(関根清三訳『イザヤ書』[岩波書店、1997年]、114頁、注4)。詩編の方は具体的に何を指しているか特定することは困難ですが、新約聖書では繰り返し、神殿当局によって十字架に追いやられた主イエスを指すイメージとして理解されて来ました。主イエスが神殿当局者に対して語った「ぶどう園と農夫」の譬えでも、主イエスを指すものとして、この詩編が直接引用されています。イザヤの時代も主イエスの時代も、為政者たちは神の言葉を語る者たちを疎んじたのですね。

 もう一つ、23-29節の「農夫の知恵」は、種の種類によって蒔き方も脱穀の仕方も違うことが語られていますが、当時の(最先端の?)農業技術を垣間見るような気がしますね。聖書協会共同訳では、黒種草(クロタネソウ)、クミン、小麦、大麦、デュラム小麦の5種類が名前を挙げて言及されています。口語訳では「黒種草」は「いのんど」、「デュラム小麦」は「スペルト麦」となっています。新改訳2017では「黒種草」は「ういきょう」、「デュラム小麦」は「裸麦」です。あらためて比べてみると混乱しますね。「クロタネソウ」で検索すると、どうやらブラッククミンとかキャラウェイとかのようですので、中東で一般的なクミン系のスパイスということでしょう。いずれにしても、ここでは種類によって扱いが違うことが強調されていますので、新約聖書の「種まき」の譬えの撒き散らすイメージだけではないことがわかります。イザヤ28章によれば、撒き散らすのはクミン系の二つだけのようです。ということは、種まきの譬えのタネはクミン? いや、収穫のイメージからすると麦系でしょうか?

 それはともかく、ここでのポイントは、当時の農業技術が「これもまた万軍の主から出たことである」とまとめられていることです。最先端の技術も人間の知恵だけで説明すべきではなく、神の祝福によるものとして受け止めるということです。人間は自らの技術を過信してはならない、神の前にへり下る姿勢を失ってはならない、ということだと思います。ゲノム編集も原子力発電所も、ましてや核兵器など、人間が驕り高ぶって振り回すべきではない、と考えるべきなのでしょう。

 (長くなりましたので、この辺りにします)

 

宗教法人日本ホーリネス教団中山教会・ 〒273-0024 千葉県船橋市二子町604-1・ 牧師:河野克也 Katsuya Kawano