6月17日の祈祷会の学びの動画です
先ほど終了した祈祷会の学びのライブ配信動画を、ブログでも提供いたします。
イザヤ35章:イザヤ書における位置づけ
本日の中山教会の聖書通読箇所は、イザヤ書35章です。35章は、イザヤ書の第1区分である1章から39章の中で、詩の文体(韻文)で書かれる預言の言葉の締めくくりとなります。その後の36-39章は、通常の文体(散文)で書かれる歴史記述ですので、その文体の転換から、全体的な区分の区切りも、とてもわかりやすくなっています。
イザヤ書の区分
第1区分(1-39章)
預言集(1-35章)
歴史記述(36-39章)
第2区分(40-55章)
第3区分(56-66章)
35章:回復の希望
第1区分の預言集を締めくくる35章は、終末論的な壮大なスケールの預言です。『新聖歌』の交読文にもありますので、馴染深い章だと思います。聖書協会共同訳では「回復の希望」という小見出しがついていますが、この回復は、1-2節において「荒れ野」「乾いた地」「砂漠」が、豊かに水を湛えた花の咲き誇る地へと変わるという、美しい描写で描かれます。この描写は、単にユダ王国の周辺の荒れ野が豊かになるというだけの描写ではなく、むしろ、神によって造られた世界そのものが新しくされるという、被造世界の回復を描いたものとして読むことができるでしょう。同じイメージが、6節後半から7節にかけても繰り返されます。
もう一つは、病や障害といった人間の体のもつ弱さが、癒され回復されるイメージです。こちらは5節から6節前半に描かれます。この癒しと回復のイメージは、新約聖書の主イエスの宣教に重ね合わされて行きます。当時ガリラヤとぺレアを治めていた領主ヘロデ・アンティパスによって投獄されていたバプテスマのヨハネは、イエスの宣教活動について弟子たちから聞かされると、弟子二人をイエスのもとに遣わして、「来るべき方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか」と尋ねさせています(マタイ11:3//ルカ7:19)。それに対して、イエスは、「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい」と告げ、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、規定の病を患っている人は清められ、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」と言いますが(マタイ11:5//ルカ7:22)、この答えの中にはイザヤ35:5-6aの記述が含まれます。新約聖書の時代、また主イエスご自身の自己理解において、イザヤ35章が告げる終末論的な回復が大きな意味を持っていたことが分かりますね。
36-39章:散文による歴史記述
イザヤ36-39章は、第1区分と第2区分の間の区切りを際立たせる目印となります。内容は、ヒゼキヤ王の治世(前725-697年)の晩年の前701年に、アッシリアのセンナケリブがエルサレムを包囲した危機から奇跡的に救われる出来事を記した36-37章と、ヒゼキヤ王が死の病にあって涙ながらに神に祈ったことで、癒された出来事(38章)と、その快気祝いにやってきたバビロンの使者を歓迎したヒゼキヤ王の判断に対して、イザヤがその甘さを指摘し、バビロン捕囚が避けられないことを預言する出来事(39章)によって構成されます。
少し前の31章では、アッシリアからの独立を画策する中でエジプトを頼りにする愚かさが指摘されていますが、アッシリア軍の司令官である総督ラブ・シャケが降伏を呼びかける言葉の中で、同じようにエジプトを頼りにする愚かさが指摘されます(39:8-9)。続く10節にある、「この度、私が主ご自身と関わりなくこの地を滅ぼしに攻め上って来たと思うのか。この地に攻めのぼり、これを滅ぼせと私に言われたのは主ご自身なのだ」というラブ・シャケの最後の言葉は、決して真に受けてはならないものです。この言葉は、8-9節の「エジプトではなくアッシリアを頼れ、そうすればお前たちがエジプトから調達しようとしている軍馬を2000頭与えてやろう」という言葉からしても、また、最終的に、この時にエルサレムを包囲していたラブ・シャケ率いるアッシリア軍が、一夜にして壊滅した展開からも、正しいことを述べてはいないと判断できます。「主を頼る」と言ってアッシリアに反旗を翻そうとするユダ王国に対して、その「主に頼る」ことを皮肉って語った挑発的な発言だと理解できます。この辺りも、アッシリアの傲慢を見せつけられているような気がしますね。
次週の予告
次週はイザヤ書の第二区分に進み、42章を扱います。ユダ王国は、ヒゼキヤ王の後、アッシリアの後に台頭するバビロンによって滅ぼされ、捕囚の憂き目に遭うのですが、40章から始まる第二区分は、このバビロン捕囚からの帰還が、神による救い・解放の出来事として描かれます。第1区分でも、ところどころに離散していた民の帰還の預言が散りばめられていますが、いよいよその帰還が正面から扱われる、ということです。