nakayama-holinessのブログ

日本ホーリネス教団中山キリスト教会の公式ブログです。

2021年6月24日 祈祷会の学び

6月24日の祈祷会の学びの動画です

 先ほど終了した祈祷会の学びのライブ配信動画を、ブログでも提供いたします。


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イザヤ書42章

イザヤ書第二区分

 イザヤ書の第二区分(第二イザヤ)である40-55章は、バビロン捕囚からの帰還を救い(第二の出エジプト)として描く、慰めと希望のメッセージに満ちた箇所です。書かれている内容から見ても、語りかけられている人々は、明らかにバビロン捕囚の只中にある人々でしょう。日常的にバビロンの神々の誘惑にさらされている状況で、自分たちの伝統的な神ヤハウェアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神に対する信頼が揺らぐような中、その信仰を改めて立て直すことを呼びかけているのです。

 ネオ・バビロニア帝国は、紀元前597年にエルサレムに侵攻し、主要な人々を捕囚としてバビロンに連れ帰ります(第一次捕囚)。その10年後の587年には、再びエルサレムに侵攻し、今度はエルサレムを包囲し陥落させ、神殿を破壊します。この第二次捕囚によって、多くの人々がバビロンに捕らえ移されていきます。かつてのユダ王国の領土も、すべてバビロンの行政区域となりますが、荒廃した町々に住む人はまばらだったのでしょう。バビロンに捕らえ移された人々は、信仰的なアイデンティティーの危機に直面します。この辺りの様子は、詩編137編にある悲痛な叫びから想像できるでしょう。

 

バビロンの川のほとり

そこに座り、私たちは泣いた シオンを思い出しながら。

そこにあるポプラの木々に琴を掛けた。

私たちをとりこにした者らがそこで歌を求め

私たちを苦しめる者らが慰みに

「我らにシオンの歌を一つ歌え」と命じたから。

どうして歌うことができようか

異国の地で主のための歌を。(1-4節)

 

彼らは、栄華を極めたバビロンで、壮大な神殿で贅の限りを尽くした神々への礼拝が行われる中、マルドゥク神を筆頭にバビロンの神々に捧げられる賛美や朗読される神話に接して、改めて自分たちの伝統的な神礼拝について考えさせられたでしょう。果たして自分たちの神ヤハウェは本物の神なのだろうか、それとも戦いに勝ったバビロンの神マルドゥクの方が本物なのだろうか、と。そこで、なおヤハウェこそ神という信仰を貫いている人々に対して、バビロン捕囚からの帰還が「救い」として告げられたのです。

 

ヤハウェの僕

 イザヤ書第二区分には、「僕の詩」と呼ばれる部分が4つあります。42章はその最初のものです。最も有名なのは、52章13節から53章に掛けて歌われる第4の僕の詩です。この「僕」が誰を指すのか、長らく議論されてきましたが、クリスチャンの私たちにとっては、真っ先にイエス・キリストが頭に浮かぶでしょう。

 しかし、元々の第二イザヤでは、一方では捕囚からの帰還を実現させるメシア、理想的王としてのメシアという個人が「僕」と呼ばれる箇所もあり、44章、45章などでは、バビロンに代わって世界の覇者となったアケメネス朝ペルシアの王キュロスを指して「彼は私の牧者/私の望みをすべて実現する」と語り(44:28)、また彼を「油注がれた人キュロス」と呼びます(45:1)。その一方では、神の民イスラエルを指して「私の僕」と呼ぶ箇所もあります(42:19)。

 メシアを指して「僕」と呼ぶ部分は、捕囚からの期間に焦点が合わされていますが、イスラエルを指して「僕」と言う時には、かつて神の民イスラエルが「僕」としての役割を果たすことに失敗し神に背いたことを回顧し、それにも関わらず神がその出来損ないの「僕」を贖う、と告げるのです。捕囚からの帰還は、神による赦しの側面が色濃いのですね。いずれにせよ、この二重の「僕」の意味を念頭において読むと、わかりやすいかもしれません。

 

 

 

宗教法人日本ホーリネス教団中山教会・ 〒273-0024 千葉県船橋市二子町604-1・ 牧師:河野克也 Katsuya Kawano