nakayama-holinessのブログ

日本ホーリネス教団中山キリスト教会の公式ブログです。

2021年6月27日 礼拝

6月27日(聖霊降臨後第五主日)の礼拝動画です

 先ほど終了した礼拝のライブ配信動画を、ブログでも提供いたします。

 


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ルカ17:1-10

 一見すると、複数のテーマの短い教えがゆる〜く繋がっているように見えますが、よく読んでみると、この箇所も実はかなり深いところで繋がっているように思えます。

1-2節

 人をつまづかせることがどれほど悲しむべきことかについて、ルカ版の主イエスは、「首に挽き臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまうほうがまし」、と語ります。挽き臼は石で作られたものですので、石を括り付けて人を海に放り込むというと、殺人事件っぽく聞こえてしまいますが、それほど人を躓かせることが恐ろしいことだ、という警告なのでしょう。ちなみにマタイ18:6-7の並行箇所では、「ろばの挽く石臼」となっていますので、回転する上石の中心から出ている棒につけた横棒をロバの首に固定して、ロバが石臼の周りを回って粉を挽くという、業務用の大型の石臼です。ルカ版のイメージよりも格段に残酷ですね。

 ただし、ここで聖書協会共同訳が「災いがある」と訳したギリシア語は、「ウーアイ」で、ルカ6章の「平地の説教」にある「富める者」への警告にも使われていて、新改訳2017は「哀れ」と訳しています(ここもそう訳しているかと思ってチェックしてみたら、なぜか「わざわい」と訳してありました。なぜ?)。もともとの意味としては、嘆き悲しむ悲嘆の声を音として表現したもののようですから、「ああ」なのでしょうが、「ああ」だけだとなんだかわからないので、「嘆かわしい」くらいが妥当かもしれません。いずれにせよ、人を躓かせることはその相手を滅ぼすことになることから、それがどれほど悲しむべきかをわかりやすく伝えるために、このようにグラフィックに描写したのでしょう。

3-4節

 次の部分は、同じ人物が一日7回も罪を犯してきた場合に、それでもその人を赦すようにと教えます。この人物が同じ罪を7回犯してくるという想定なのか、7つ別の罪を犯してくるという想定なのか、詳細は一切描かれません。そもそも、7回も「悔い改める」ということ自体、普通に考えると極めて怪しい、疑わしい事態です。本気で悔い改めているのが伝わってくる状態なら同情する気持ちも湧いてくるでしょうが、一日7回となると、「確信犯」だろうと思いたくなります。ルカには他にも、15章の放蕩息子のように、「悔い改め」のセリフをリハーサルしてから父親の元に戻るという、誠実さが疑わしい悔い改めが描かれている人物が出てきます。主イエスは、そのような疑わしい人物であっても、毎回赦すようにと教えているのかもしれません。なかなか大変な要求だと思います。

 前の部分との繋がりについて考えて見ると、この7回罪を犯して7回悔い改める人物が、つまずきとなる人物のように思えるのですが、あるいは、そのような疑わしい悔い改めをする人物を赦さない人の方が、つまずきを与える存在として嘆かれているのかもしれません。

5-6節

 5節の冒頭に「さて」という言葉があって、新しい話題に変わっていることが示されます。ここでは、弟子たちが「信仰をますにはどうすればよいか」と主イエスに問いかけますが、6節の主イエスの答えは、どう読んでもまともに答えているようには思えません。桑の木に海に入るように命じても、信仰があればその通りになるという言葉は、弟子たちには信仰がないと突き放しているように見えます。あるいは、弟子たちが求めていた信仰が、そうした奇跡を起こすような超人的な信仰だった、ということなのでしょうか?

7-10節

 7節以降の部分は、奴隷の存在が一般的だった古代世界の状況を反映していますので、現代の私たちには想像力をフル稼働させないとわかりにくい箇所だと思います。ここで描かれる主人と奴隷(「僕」と訳されますが、要するに奴隷です)の関係は、当時はごく普通のものだったのでしょう。想定されている状況は、一人の奴隷が農作業ないし放牧に一日従事した後、戻ってきてすぐに主人のために食事を用意し、給仕もするという状況です。大金持ちであれば、それぞれの仕事に専属の奴隷がいるでしょうから、ここで想定される主人はそれほど大規模な農場主の大金持ち、というわけでもないと思います。それでも、奴隷に対する主人の態度は、ここに描かれるようなものが普通なのでしょう。

 この箇所は、10節にある「私どもは役に立たない僕です。すべきことをしたにすぎません」というセリフは、なんとなく卑屈に聞こえて好きではないのですが、よく読むと、これは奴隷の主人に対して語りかけられている言葉ですので、日頃奴隷に対して8-9節にあるような態度で接している主人に対して、奴隷の立場に身を置くように促しているとも読めるのです。結構な仕掛けだと思います。

 主人と僕の関係が逆転して描かれるのは、ここだけではありません。12:35-37では、婚礼から帰ってくる主人を目を覚ましていて迎えるという、ごく当たり前のことをした僕に対して、感激した(?)主人が、婚礼から帰ってきたばかりというのに、当たり前のことをした僕のために給仕してくれるというのは、あり得ない話です。聞いていた人たちは「そんな訳ない!」とツッコミを入れたことでしょう。でも、そこが仕掛けで、人々の常識を覆す意図があるのでしょう。しかし、この17章まで読み進むと、12章の「あり得ない」話が、意図的な立場の逆転として繋がるような気がします。

 さらに22章まで視野を広げると、最後の晩餐の席上で誰が一番偉いかについて仲間割れしている弟子たちに対して、主イエスが給仕する姿を模範として示して、互いに仕え合うことを教えていますので、この立場の逆転が、本来あるべき信仰者の姿として浮かび上がります。弟子たちは、十字架の直前にも、主イエスの弟子としてのあるべき姿ではなく、むしろ「異邦人の王たち…、民の上に権力を振るう者」のように振る舞い、権力闘争を繰り広げているのです。

 17:5で弟子たちが主イエスに問いかけた「信仰を増す」ということは、ひょっとすると、より強固な超人的な信仰を持って、仲間を圧倒するような(つまり権力を振るい、支配するような)信仰を求めていたのかもしれません。

 主イエスが私たちに求めているのは、へりくだって互いに仕え合う信仰ではないでしょうか。

(誤変換を修正しました:2022.1.31.)

 

 

宗教法人日本ホーリネス教団中山教会・ 〒273-0024 千葉県船橋市二子町604-1・ 牧師:河野克也 Katsuya Kawano