nakayama-holinessのブログ

日本ホーリネス教団中山キリスト教会の公式ブログです。

2021年7月1日 祈祷会の学び(イザヤ書49章)

7月1日の祈祷会の学び動画です

 先ほど終了した祈祷会の学びのライブ配信動画を、ブログでも提供いたします。

 


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イザヤ書49章の背景

 イザヤ書の第二区分(40-55章)は、バビロン捕囚により、エルサレムから遠く離れたバビロンの異教世界において日常生活を送る人たちに対して、神が捕囚からの帰還として救いを実現してくださることを慰めとして告げる預言の言葉です。繰り返される偶像崇拝の批判は、バビロンにあって人々から崇拝されている神々になびいてしまっているイスラエルの民に対して、あらためて天地万物の創造主なる神ヤハウェに立ち返ることを呼びかける意図を持っています。

 特に44章や46章では、ベル神、ネボ神が名指しされ、その偶像の作成過程までも詳細に描かれて揶揄されていて、森から切り出した木の一部を煮炊き用の薪にして、残りで神々の像を作る、といった表現は滑稽なほどです。実際には、どの宗教でも「聖」と「俗」の区別が重要視され、聖なるもののために使うものと、俗なるもののために使うものは厳密に区別されますから、ここで描いているように、煮炊きに使った「残り」で神々の像を作っていたとは考えにくいと思います。それはむしろ、イスラエルがそれらの神々を魅力的な選択肢と考え、あるいはバビロンで暮らす中で当然のようにバビロンの神々を拝むようになっていた状況が反映されているのでしょう。その神々ではない!あなたがたが拝むべきはヤハウェただお一人だ!という強い主張をするための意図的な戯画化(誇張して歪めた表現)ということです。

 こうした偶像批判は、その激しい口調から、通常、ユダヤキリスト教的な唯一神教の「排他性」として語られがちですが、決してそのように単純化すべきではないと思います。こうした表現の根底には、イスラエルの民と、彼らをエジプトから救い出した神との間で結ばれた契約があります。イスラエルの民は、神によって贖われ、46章の表現を使うなら、「母の胎を出た時から私に担われている者たち」、「腹を出た時から私に運ばれている者たち」であり、この神ヤハウェ以外を頼りにすることはありえない、ということです。

イスラエルの役割

 神がかつてイスラエルをエジプトの奴隷の家から贖い、今度はバビロンから贖って連れ帰ることは、イスラエルが「主の僕」としての役割を委ねられたということを意味します。49章6節には、神ヤハウェが「イスラエルの生き残った者を連れ帰らせる」目的は、「諸国民の光とし/地の果てにまで、私の救いをもたらす者とする」ためだと、はっきりと述べられています。最初にエジプトから贖われた際には、イスラエルはこの役割を担うことに失敗し、捕囚の憂き目に遭うことになりました(43章)。49章は、神による選びが変わらないことを強調しますが、それは、諸国民の光として、救いをもたらす「僕」としての使命への選びであることを覚える必要があるでしょう。

宗教法人日本ホーリネス教団中山教会・ 〒273-0024 千葉県船橋市二子町604-1・ 牧師:河野克也 Katsuya Kawano