nakayama-holinessのブログ

日本ホーリネス教団中山キリスト教会の公式ブログです。

2021年7月8日 祈祷会の学び

7月8日の祈祷会の学びの動画です

 先ほど終了した祈祷会の学びのライブ配信動画を、ブログでも提供いたします。

 


www.youtube.com

 

イザヤ書第3区分?

 以前にもブログに書きましたが、イザヤ書は通常、大きく3つの区分に分けられます。1〜39章(第一区分/第1イザヤ)、40〜55章(第二区分/第2イザヤ)、56〜66章(第三区分/第3イザヤ)という具合です。「第2イザヤ」、「第3イザヤ」といっても、「イザヤ」という名跡を襲名した預言者個人を指すわけではありません。別に56〜66章の「著者」が三代目イザヤという風に考える必要はないと思います。

 福音派は従来、「イザヤは1人だけ」という主張にこだわり、紀元前8世紀の預言者イザヤが66章まで1人で預言したという理解を大切にして来たと思いますが、私はその理解にこだわる必要はないと考えます。「イザヤ書」が現在の形に編集されていく過程は、詳細まで再構成できるものではないでしょうし、その必要もないと思います。少なくとも、現在の形では、文学的に大きな区分は1〜39章と、40〜66章の二つのように見えます。イザヤ書全体は、預言の言葉として詩の文体(韻文)で書かれるのに対して、36〜39章は普通の文体(散文)で書かれていて、明らかにそれ以前とそれ以降で区切りが見てわかるように整えられていますので、この文学的な区分を尊重したいと思います。つまり、前半と後半という理解です。

 その上で、従来の区分をおおよその目安として、40〜55章を捕囚からの帰還を救いとして語る第二区分(恵み)、56〜66章をその帰還という救いに応えて生きるよう呼びかける第三区分(応答)という風に理解しておきます。もちろん、恵みと応答という区分けはあくまでも便宜的なもので、それぞれの要素はもう一方の区分にも当然ながら出てきます。

 後半部分について言えば、紀元前8世紀のアッシリアの危機の時代に活動した預言者イザヤの言葉を記録し、編集し、書き残した仲間たち、弟子たちの集団が、バビロン捕囚という新たな危機に直面して、今度は捕囚からの帰還を神の救いの業として語り、その恵みに対する応答を呼びかけるために、神から新たに託された預言の言葉を語ったものが、その中核を占めているでしょう。アッシリア危機の時代に預言者イザヤに言葉を託した、あの同じ神ヤハウェが、新たな時代に自分たちに言葉を託したと理解して、イザヤの伝統に連なる自覚をもって、同じ神に仕え、その言葉を語り、またイザヤ書を編纂したのだと思います。(こういう言い方をすると、多少名跡の襲名っぽくなるでしょうか? でも、彼らによるイザヤの伝統の自覚的継承は、「襲名」のような公式のものではなかったと思います。)

56章

 56章は、従来の律法理解では神殿祭儀から排除されていた宦官や外国人に対して、神の祝福がユダヤ人と区別なく及ぶようになることを告げている点が特徴です。「宦官」(ヘブライ語サーリス/ギリシア語エウニュコス)という言葉自体は、男性器が欠如した人物の役職を指すのですが、『旧約新約聖書大辞典』の説明では、どうやら聖書中に言及される多くの場合は、通常の「去勢した人物」の意味ではなく、一定の役職を指す名詞として使われているようです(例:ファラオの宮廷に仕えるポティファルは妻帯者)。それでも、このイザヤ56章の宦官は、「見よ、私は枯れ木だ」という嘆きからも明らかなように、子孫を残せない、つまり生殖器の欠如した人物です。その人物に対して、「私の家と城壁の中で/私は、息子、娘にまさる記念のしるしと名を与え/消し去られることのないとこしえの名を与える」、と祝福が告げられます。また「主に連なる異国の子ら」についても、「私の聖なる山に導き/私の祈りの家で喜ばせよう」と、やはり祝福が告げられます。

 この両者とも、その前提として、「私の安息日を守り/私が喜ぶことを選び/私の契約を固く守っているならば」(4節)、また「安息日を守り、これを汚すことのないすべての人が/私の契約を固く守るなら」(6節)と言われており、安息日と契約が強調されていますが、これは特にこの二つのグループに限定される要求ではなく、神の恵みを受ける捕囚から帰還する民すべてに求められることですので、これまで祝福に与れなかった宦官と外国人が、神の民イスラエルとして同じように祝福を受けるようになる、という新しい展開を読み取ることができると思います。

 もちろん、このイザヤ書56章の文言自体からは、例えば「主に仕え、主の名を愛し、その僕となった主に仕える異国の子ら」(6節)の表現を見ても、「改宗」、つまり割礼を受けてユダヤ人になることが前提条件になっている可能性を完全に排除することは難しいかもしれませんが、この二つのグループが絡み合うようにセットで提示されていることから判断して、割礼を受けられない宦官にも神ヤハウェとの契約が開かれていると理解し、外国人にも同じように従来の理解を超えた恵みが開かれていると考えることができるように思います。

すべての民の祈りの家

 主イエスは、エルサレム入城後、この言葉とエレミヤ7章の言葉を合成引用して、神殿当局が「私の父の家」(=神ヤハウェの神殿)を「強盗の巣」にしたと、厳しく非難します。神の恵みが常識的な理解を超えて開かれたことを、自らの使命として引き受けた主イエスが、この言葉を大切にしていたことが伺えると思います。現在は、新型コロナウィルス以上にヘイトが蔓延する事態になっていますが、私たち自身が、主イエスの思いを受けて、他者に開かれた神の恵みを深く受け止め、しっかりと実践したいと思います。

宗教法人日本ホーリネス教団中山教会・ 〒273-0024 千葉県船橋市二子町604-1・ 牧師:河野克也 Katsuya Kawano