nakayama-holinessのブログ

日本ホーリネス教団中山キリスト教会の公式ブログです。

2021年7月29日 祈祷会の学び(エレミヤ書11章)

7月29日の祈祷会の学びのライブ配信動画です

 先ほど終了した祈祷会の学びのライブ配信動画を、ブログでも提供いたします。


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エレミヤ書

 預言者エレミヤは、ユダ王国の王ヨシヤの治世第13年(紀元前627年)に預言者としての召命を受け、ユダ王国の最後の王ゼデキヤの治世第11年(紀元前586年)にユダ王国がバビロンによって滅ぼされるまでの40年にわたって、預言者として活動したと考えられています。さらに言えば、エレミヤはバビロンによるエルサレム陥落後に、バビロンの長官によってユダの総督に任命されたゲダルヤを補佐して、残留民のために働いたようですが(40:1-6)、ゲダルヤが任命3ヶ月ほどでバビロンの統治に反対する勢力に暗殺されると(41:1-3)、バビロンからの報復を恐れてエジプトに逃れた反体勢力の人々に連行されてエジプトに移り、そこでも預言を続けたことが記されていますので(43:8-44:30)、少なくとも紀元前585年頃までは活動していたのでしょう。

ヨシヤ王の改革

 ヨシヤは紀元前639年に若干8歳で王に即位します。ヨシヤを王に据えたのは、「国の民」と呼ばれる豪族たちでした。彼らはヨシヤの父であるアモンを暗殺した家臣たちを皆殺しにしてヨシヤを王に据えたのですが(列王記下21:23-24)、父王アモンも祖父王マナセも、ともにアッシリアの全盛期にアッシリア支配下ユダ王国の繁栄を模索し、その過程でアッシリアの宗教儀礼を全面的に取り入れたことで、神ヤハウェに反逆し、民を偶像崇拝に導いた悪王との評価を受けています(マナセ=21:1-18; アモン21:19-26)。

 列王記を読み進めていた段階では、私自身、この辺りの記述を十分理解できていなかったように思います。その際には、神ヤハウェを礼拝する伝統的な祭儀を中心に、「親ヤハウェ崇拝/反偶像崇拝」対「反ヤハウェ崇拝/親偶像崇拝」という宗教的な対立図式で読もうとしていたために、ヨシヤを王に据えたユダの豪族たち(「国の民」)が、「反ヤハウェ崇拝/親偶像崇拝」の父王アモンを暗殺した「親ヤハウェ崇拝/反偶像崇拝」の家臣たちと対立しているとの記述が、「親ヤハウェ崇拝/反偶像崇拝」のヨシヤ王の誕生とうまく結びつかなかった、というわけです。ところが実際は、対立軸は「親アッシリア/反エジプト勢力」対「反アッシリア/親エジプト勢力」という政治的なものであり、したがって、父王アモンを暗殺した家臣団は親エジプト、ヨシヤを王に据えた豪族は反エジプトということのようです。厄介ですね。

 いずれにせよ、ヨシヤ王の宗教改革は、申命記の中心部分を記した契約の書の巻物発見により、ヤハウェ崇拝を復活させることが中心でした。残念ながら、ヨシヤ王は改革の道半ばで戦死します(列王下23:29-30)。これは、当時、衰退しつつあったアッシリアを滅ぼそうとする新興勢力のバビロンに対して危機感を抱いたエジプトが、(かつて対立していた)アッシリアに加勢しようと、バビロンを迎え撃つために軍隊を北上させた際に、ヨシヤ王がそのエジプト軍を迎え撃とうと出陣したことで、メギドで戦死したのです。ヨシヤの曽祖父であるヒゼキヤ王が、病気回復を祝って表敬訪問に訪れた新興バビロンの使者を歓待したことが記されていますが(列王下20:12-19=イザヤ39:1-8)、ヨシヤ王も同じくバビロンとの連携を模索した、ということなのでしょう。

 エレミヤは、11:1-5にある契約の言葉の強調からも読み取れるように、一定程度ヨシヤの宗教改革を支持していたようですが、エルサレム神殿に祭儀を集約させるヨシヤの改革によって、一定の不利益を被ったエレミヤの故郷アナトトの祭司たちから、命を狙われたようです(11:18-23)。この辺りの複雑な事情は、岩波版旧約聖書エレミヤ書』の訳者である関根清三氏の解説が参考になります(『エレミヤ書旧約聖書Ⅷ[岩波書店、2002年]、331-32頁)。

 エレミヤは、時の緊迫する政治状況の中で、意見を異にする勢力に翻弄されながら、聞く耳を持たない民に対して預言を語り続けた人物でした。エレミヤ書を読んでいると、切なくなります。彼が訴えた、「真実と公正と正義をもって/『主は生きておられる』と誓うなら/諸国民は主によって祝福を受け/主を誇りとするようになる」との言葉を噛み締めながら、この書を読み進めたいと思います。

宗教法人日本ホーリネス教団中山教会・ 〒273-0024 千葉県船橋市二子町604-1・ 牧師:河野克也 Katsuya Kawano