nakayama-holinessのブログ

日本ホーリネス教団中山キリスト教会の公式ブログです。

2021年7月18日 礼拝週報

7月18日(聖霊降臨後第八主日)の週報です

 本日の礼拝週報をお届けします。

 

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2021年7月18日 礼拝週報

 

お知らせ

22日の祈祷会の学びはお休みです

 22日(木)の祈祷会の学びは、日本ホーリネス教団の夏季聖会が同じ時間帯にYouTubeライブ配信される関係で、そちらに合流いたします。祈祷会の学びのライブ配信はありませんので、ご注意ください。

22日は夏季聖会にご参加ください

 夏季聖会は、聖会①が午前10時より、聖会②が午後2時から行われます。どちらもチラシの裏面に印刷されているQRコードから、直接YouTubeの配信動画にアクセスできます。以前にもチラシを掲載しましたが、あらためて以下に掲載いたします。

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夏季聖会チラシ(表面)

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夏季聖会(裏面)

 

2021年7月15日 祈祷会の学び(イザヤ書63章)

7月15日の祈祷会の学びの動画です

 先ほど終了した祈祷会の学びのライブ配信動画を、ブログでも提供いたします。

 


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イザヤ書60章以降:終末論的逆転

 イザヤ書60章は、「起きよ、光を放て。/あなたの光が来て/主の栄光があなたの上に昇ったのだから。…あなたの上には主が輝き出で/主の栄光があなたの上に現れる」と、シオンに語りかけて始まる印象的な箇所です。

 ここで使われているイメージは、「有翼日輪」という、「エジプトに発し古代オリエントに共通する王のイデオロギーを表す図像であ」り、アケメネス朝ペルシアの都ペルセポリス(「ペルシアの都市」という意味のギリシア語名で、現在のイランのファールス州)にあったダレイオス1世の建設した王宮の「アパダナ(謁見の間)大階段のレリーフ」には、そこに「異邦諸民族が自発的に捧げる貢ぎ物を受け取る大王の上に有翼日輪が輝く」姿が描かれています(浅野淳博他『新約聖書解釈の手引き』[日本キリスト教団出版局、2016年]、第8章「文化研究批評」266頁)。

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アパダナ東階段中央:有翼日輪

 

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アパダナ東階段:各国使節団の朝貢

上の二つの写真は、ウィキメディア・コモンズからのものです(Wikimedia Commons)。最初の写真の中央上部に翼の生えた太陽が描かれていますが、これが「有翼日輪」です。次の写真で隊列を組んで順番待ちをしているような姿で描かれるのが、各民族の朝貢団で、このイメージは朝貢団が王のもとに導かれて行く嘆願者すの姿で描かれていて、「軍事的なイメージはかけて」いる点が特徴です(同書、266-67頁)。『手引き』8章の著者たち(村山・浅野・須藤)によれば、イザヤ書60章は、この「輝き出る太陽のイメージと、軍事的な要素を伴わない異邦人の自発的な貢納の組み合わせ」にあり、それはこの写真のアパダナ・レリーフと「顕著に一致する」のです。つまり、イザヤ書60章では、このイメージが神ヤハウェに当てはめられ、ヤハウェが王として治めるシオンの丘に、各国使節団が朝貢にやって来るとして、このイメージを逆転させているわけです。

 古代メソポタミアでのこのイメージの使用が「王=太陽=神」という理解を反映するのに対して、イザヤ書のイメージの独自な点としては、聖書の創造信仰を背景に、太陽そのものを神としては描かず、あくまでも神による被造物という理解が根底にあることが指摘できるでしょう。19-20節の描写は、被造物としての太陽が役割を終え、神ヤハウェが「あなたにとってとこしえの光隣」、「あなたの太陽(つまり神ヤハウェ)は再び沈むことがな」いと告げられます。

回復と報復

 イザヤ書61章は、終末における神の救いの完成を「ヨベルの年」の解放のイメージで描きますが、その際に、「主の恵みの年と/私たちの神の報復の日」を一息で語ります。主イエスがナザレの会堂でこの箇所を朗読し、ご自身の宣教を終末におけるヨベルの年の成就として提示した際には、この最後の「私たちの神の報復の日」の直前で引用を止めていますが(ルカ4:18-19)、それは、この箇所にある報復のイメージを沈黙させる意図があったのでしょう。その背景を考えてみます。

 エルサレムを中心とするユダヤと、かつて北王国イスラエルの中心地だったサマリアは、紀元6年にローマ帝国の皇帝直轄属州となります。これは紀元前4年のヘロデ大王の死去に伴い、その息子の一人ヘロデ・アルケラオスにこの地域が分割統治されたにもかかわらず、彼の統治が(父王ヘロデに輪を掛けて)残忍なものだったために、日頃は対立していたユダヤサマリアの人々が結託して皇帝に使節団を派遣し、アルケラオスの追放とローマの直接統治を願い出たことによります。このように、当初は住民自身の希望によって始まったローマによる直接統治ですが、始まってみると現実はそれほど甘くはなく、派遣される総督や補助部隊に対する住民の不満は募っていきました。しかも、紀元37年までは、大祭司が神殿での祭儀の際に着用する祭服さえも総督が管理し、その都度総督の許可を得て借り出すような状況でしたから、異教徒が神の民を支配するという「屈辱」が強く意識され、民族主義が高まっていきます(サマリアはこの点で、多少ユダヤの住民とは温度差があったと考えられます)。

 他方ガリラヤは、紀元前4年のヘロデ大王死去の際に、ヘロデの別の息子ヘロデ・アンティパスが、ガリラヤとペレアの「四分邦領主」としてローマに任命されますが、アンティパスの統治は比較的安定していたようで、左遷されることもなく主イエスの時代にも、変わらず統治を任され続けています。ただし、ガリラヤの住民も、ユダヤ教徒としてエルサレム神殿への帰属意識が高く、ユダヤの住民と同様に、反ローマの民族主義が高まっていたと考えることができます。ちなみに紀元6年の属州ユダヤ創設の際には、シリア州総督の管轄下で行われた人口調査(徴税目的)に対して、ガリラヤ出身のユダの率いる徴税拒否の暴動が起きています(当然ながら、ローマ軍によって鎮圧されます)。

 このように背景を探ると、主イエスの故郷ナザレの会堂の聴衆の間にも、反ローマの軍事的反乱を期待する機運がある程度高まっていたのかもしれません。主イエスがわざわざ「報復の日」を外して引用したのも、その辺りが関係していそうですね。

 とはいえ、イザヤ書61章には確かに「報復の日」が語られています。61章ではまだ「異邦人による自発的貢納」の側面が強い描写ですが、63章になると、イスラエルの宿敵エドムに対して、激しい(生々しい)イメージで報復が描かれます(1-6節)。「エドム」(=赤)からの連想で、「ぶどうの搾り場」でぶどうを踏む際の赤い汁が、神の怒りを受けて流される報復の赤い血の象徴として使われますので、現代の私たちにはなかなか飲み込みづらい描写です。63章後半から64章にかけては、(バビロン捕囚で)廃墟となったエルサレムの回復を願う声が、神ヤハウェに向けられていますので、この辺りはやはり周辺の列強に対する報復が弱小の民であるイスラエルの救いとして描かれているとも言えるでしょう。ところが65章に目を転じると、神が報復した対象が、神に反逆したイスラエル自身であるように描かれています(3-7節)。つまり、ここではバビロン捕囚の原因として、イスラエルの民の反逆の姿を描いているわけです。しかし、その報復対象である反逆の民に対して、神は憐れみを注ぎ、その「残りの民」(「ぶどうの房に〔ある〕発酵しかけの果汁」=「祝福」:8節)から、回復の業が始められることが、救いとして告げられます。このように、大きな展開としては、報復よりも回復に重きが置かれていると言えるでしょう。

 この回復/祝福/救いの最終的なイメージとして、イザヤ11章の狼と小羊が共に伏すイメージが繰り返され、「私の聖なる山のどこにおいても/…危害を加えることも、滅ぼすこともない」と宣言されます(65:25)。これは、報復の結果の立場の逆転ではありません。もしも列強に対する報復の結果、弱小だった神の民が列強を支配するようになるという勝利主義的なヴィジョンを描くなら、「狼は小羊に噛み裂かれ、獅子は牛に食い殺される」というような描写になってもおかしくないでしょうが、ここでは(そしてイザヤ11章の元々のイメージでも)、両者が平和のうちに共存する姿が描かれているのです。ですから、実際のイザヤ書の記述の順序では、「豚や忌むべきものやねずみの肉を食べる者たち」が「共に滅び」(66:17b)、その「私に背いた者たちの死体」が人々に見られる(見せしめ?)というおぞましい光景の描写で終わっていますが(66:24)、事柄の内実としては、65章の回復のイメージの方が最終的なイメージだと言えるでしょう。

 *ちなみに、現代イスラエルの英字新聞「ハアレツ」(「この土地」という意味のヘブライ語)の7月15日付の記事で、ダビデ王時代(第一神殿期)のエルサレムの遺跡から、完全な姿の豚の骨が出土したことが報告されていました。この骨は、野生種ではなく、食用に飼育されていた豚の骨であることから、(聖書の律法の規定にもかかわらず)少なくとも富裕層の間で、わずかながら豚肉が食されていた証拠だと説明されていました。もともと地域的に古代オリエントでは、イスラエル以外でも羊、山羊、牛が食肉の中心だったということで、この豚の骨の出土は珍しいようです。イザヤ66:17bからすると、ネズミの肉も食べていたのですね…。ちょっと複雑です。

2021年7月11日 礼拝

7月11日(聖霊降臨後第七主日)の礼拝動画です

 先ほど終了した礼拝のライブ配信動画を、ブログでも提供いたします。

 


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とりあえず動画だけですが、どうぞ。

2021年7月8日 祈祷会の学び

7月8日の祈祷会の学びの動画です

 先ほど終了した祈祷会の学びのライブ配信動画を、ブログでも提供いたします。

 


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イザヤ書第3区分?

 以前にもブログに書きましたが、イザヤ書は通常、大きく3つの区分に分けられます。1〜39章(第一区分/第1イザヤ)、40〜55章(第二区分/第2イザヤ)、56〜66章(第三区分/第3イザヤ)という具合です。「第2イザヤ」、「第3イザヤ」といっても、「イザヤ」という名跡を襲名した預言者個人を指すわけではありません。別に56〜66章の「著者」が三代目イザヤという風に考える必要はないと思います。

 福音派は従来、「イザヤは1人だけ」という主張にこだわり、紀元前8世紀の預言者イザヤが66章まで1人で預言したという理解を大切にして来たと思いますが、私はその理解にこだわる必要はないと考えます。「イザヤ書」が現在の形に編集されていく過程は、詳細まで再構成できるものではないでしょうし、その必要もないと思います。少なくとも、現在の形では、文学的に大きな区分は1〜39章と、40〜66章の二つのように見えます。イザヤ書全体は、預言の言葉として詩の文体(韻文)で書かれるのに対して、36〜39章は普通の文体(散文)で書かれていて、明らかにそれ以前とそれ以降で区切りが見てわかるように整えられていますので、この文学的な区分を尊重したいと思います。つまり、前半と後半という理解です。

 その上で、従来の区分をおおよその目安として、40〜55章を捕囚からの帰還を救いとして語る第二区分(恵み)、56〜66章をその帰還という救いに応えて生きるよう呼びかける第三区分(応答)という風に理解しておきます。もちろん、恵みと応答という区分けはあくまでも便宜的なもので、それぞれの要素はもう一方の区分にも当然ながら出てきます。

 後半部分について言えば、紀元前8世紀のアッシリアの危機の時代に活動した預言者イザヤの言葉を記録し、編集し、書き残した仲間たち、弟子たちの集団が、バビロン捕囚という新たな危機に直面して、今度は捕囚からの帰還を神の救いの業として語り、その恵みに対する応答を呼びかけるために、神から新たに託された預言の言葉を語ったものが、その中核を占めているでしょう。アッシリア危機の時代に預言者イザヤに言葉を託した、あの同じ神ヤハウェが、新たな時代に自分たちに言葉を託したと理解して、イザヤの伝統に連なる自覚をもって、同じ神に仕え、その言葉を語り、またイザヤ書を編纂したのだと思います。(こういう言い方をすると、多少名跡の襲名っぽくなるでしょうか? でも、彼らによるイザヤの伝統の自覚的継承は、「襲名」のような公式のものではなかったと思います。)

56章

 56章は、従来の律法理解では神殿祭儀から排除されていた宦官や外国人に対して、神の祝福がユダヤ人と区別なく及ぶようになることを告げている点が特徴です。「宦官」(ヘブライ語サーリス/ギリシア語エウニュコス)という言葉自体は、男性器が欠如した人物の役職を指すのですが、『旧約新約聖書大辞典』の説明では、どうやら聖書中に言及される多くの場合は、通常の「去勢した人物」の意味ではなく、一定の役職を指す名詞として使われているようです(例:ファラオの宮廷に仕えるポティファルは妻帯者)。それでも、このイザヤ56章の宦官は、「見よ、私は枯れ木だ」という嘆きからも明らかなように、子孫を残せない、つまり生殖器の欠如した人物です。その人物に対して、「私の家と城壁の中で/私は、息子、娘にまさる記念のしるしと名を与え/消し去られることのないとこしえの名を与える」、と祝福が告げられます。また「主に連なる異国の子ら」についても、「私の聖なる山に導き/私の祈りの家で喜ばせよう」と、やはり祝福が告げられます。

 この両者とも、その前提として、「私の安息日を守り/私が喜ぶことを選び/私の契約を固く守っているならば」(4節)、また「安息日を守り、これを汚すことのないすべての人が/私の契約を固く守るなら」(6節)と言われており、安息日と契約が強調されていますが、これは特にこの二つのグループに限定される要求ではなく、神の恵みを受ける捕囚から帰還する民すべてに求められることですので、これまで祝福に与れなかった宦官と外国人が、神の民イスラエルとして同じように祝福を受けるようになる、という新しい展開を読み取ることができると思います。

 もちろん、このイザヤ書56章の文言自体からは、例えば「主に仕え、主の名を愛し、その僕となった主に仕える異国の子ら」(6節)の表現を見ても、「改宗」、つまり割礼を受けてユダヤ人になることが前提条件になっている可能性を完全に排除することは難しいかもしれませんが、この二つのグループが絡み合うようにセットで提示されていることから判断して、割礼を受けられない宦官にも神ヤハウェとの契約が開かれていると理解し、外国人にも同じように従来の理解を超えた恵みが開かれていると考えることができるように思います。

すべての民の祈りの家

 主イエスは、エルサレム入城後、この言葉とエレミヤ7章の言葉を合成引用して、神殿当局が「私の父の家」(=神ヤハウェの神殿)を「強盗の巣」にしたと、厳しく非難します。神の恵みが常識的な理解を超えて開かれたことを、自らの使命として引き受けた主イエスが、この言葉を大切にしていたことが伺えると思います。現在は、新型コロナウィルス以上にヘイトが蔓延する事態になっていますが、私たち自身が、主イエスの思いを受けて、他者に開かれた神の恵みを深く受け止め、しっかりと実践したいと思います。

宗教法人日本ホーリネス教団中山教会・ 〒273-0024 千葉県船橋市二子町604-1・ 牧師:河野克也 Katsuya Kawano