nakayama-holinessのブログ

日本ホーリネス教団中山キリスト教会の公式ブログです。

2021年3月14日 礼拝週報

本日の礼拝週報です

 3月14日(レント第四主日)の週報を、ブログでも提供いたします。

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2021年3月14日 礼拝週報

イースター礼拝のお知らせ

 今年のイースターは4月4日です。今年は感染対策を徹底し、午前と午後の2回に分散することで、久しぶりに中山教会の皆様と会堂に集まって礼拝を守り、その中で聖餐式も行いたいと思います。

 昨年は、新型コロナウィルスの蔓延により、受難週の4月5日(棕櫚の主日)からオンライン礼拝に切り替えましたので、イースター礼拝は会堂に集まることもできず、また聖餐式も1年間なしで過ごしてきました。昨年のクリスマス礼拝には、礼拝を午前10時30分からと午後1時30分からの2回に分散することで、一度に会堂に入る人数を制限して、なんとか会堂に共に集う形での礼拝を無事に行うことができました。その時の「成功体験」?を踏まえて、今年のイースターでも同じようにすることで、感染のリスクを極力減らして、会堂でのイースター礼拝を共に守れるのではないかと考えています。

 午前と午後の振り分けにつきましては、原則として昨年のクリスマス礼拝で出席した方に出席していただけきたいと思います。もしも午前と午後の変更をご希望の場合は、事前にご連絡いただけますと幸いです。(クリスマス礼拝では、多少午前の部の方が人数が多かったようです。)

 聖餐式につきましては、今年日本でも発売になりました聖餐式用ぶどう液(ポーションタイプ)と聖餐式用ウェハース(個包装)を確保いたしました。配餐の仕方を工夫し、接触感染を減らすことで、安心して聖餐式に与っていただけるようにしたいと考え、準備を進めています。コロナ下で頻繁に聖餐式を行うことはできませんが、教会暦上の重要な機会には行えるようにいたしますので、ご理解とご協力をよろしくお願いいたします。

 

 

2021年3月11日 祈祷会の学び(詩編138篇)

本日の祈祷会の学びの動画です

 先ほど終了した祈祷会の学びのライブ配信動画を、ブログでも提供いたします。


2021年3月11日 祈祷会の学び

 

138篇と137篇

 138篇は「ダビデの詩」という標題がついていますが、内容から具体的な状況・背景はあまり多く読み取れない詩のようです。どちらかというと、様々な状況、様々な時代、様々な地域にあって、信仰者が自らの状況をあてはめて朗唱しやすい詩として整えられたものなのでしょう。それでも、いくつかの点で、異教の地にあって遠くエルサレムの神殿の丘を思いながら歌った歌という理解ができそうです。1つ目は、1節の最後に出てくる表現です。

  私は心を尽くしてあなたに感謝し

  の前で、あなたをほめ歌う

とありますが(目立つようにここでは太字にしました)、聖書協会共同訳(旧:961頁)では2行目の「神」の右肩にアルファベットの「a」が付いています。ページ中程にある引照・注欄の左の方に、a 別訳「神々」と書かれています。ヘブライ語では「ネゲド・エローヒーム」です。なぜ訳が分かれるかというと、「エローヒーム」は、神という意味の単語エール(単数形)の複数形なので、そのまま訳せば「神々」となるのに対して、聖書では天地創造の神(1人の神)を指して複数形のエローヒームが規則的に使用されていることから、その神を指していると理解すれば、形の上では複数形であるにもかかわらず、この単語を単数形で「神」と訳すことになるのです。ですから、単数形で「神」と訳すと天地創造の聖書の神、複数形のまま「神々」と訳すと、それは聖書の神以外の異教の神々を指していることになります。さあ、どちらでしょう?

 単数形の場合、「神(聖書の神)の前で、あなた(聖書の神)をほめ歌う」となり、ちょっと変ですね。「あなた(聖書の神)の前で、あなたをほめ歌う」となっていればスッキリですが、「神」と「あなた」が別のような感じで並んでいます。

 これに対して、複数形の場合には、「(異教の)神々の前で、あなた(聖書の神)をほめ歌う」となり、スッキリします。そうなると、歌われている情景は、外国の神々がひしめいている中で、信仰者が自分の信仰を曲げず、聖書の神に対して「あなた」と呼びかけながら礼拝している、ということになるでしょう。この情景は、バビロン捕囚まもない頃の生々しい苦悩を歌っている、一つ前の137篇との繋がりもはっきりします。(もちろん、もともとは138篇はあまり具体的にバビロン捕囚を背景に成立したものではなく、より一般的な仕方で異教祭儀の圧力を感じる中で歌われたものだったのが、後に詩編集に編纂される中で、137篇の後に置かれたことで、そのつながりの中でバビロン捕囚を意識して読まれるようになった、という可能性もあると思います。)

 いずれにせよ、聖書時代のイスラエルの民は、エジプトで目障りなマイノリティーとしてヘイトの対象となり、奴隷生活を強いられていたところから、神の憐れみによって救出されたことが、そもそもの始まりですので、138:6にある「低くされた者を顧みる」神を体験的に知っている人々です。この経験から、「低くされた」自分たちを「高くおられる」ところに引き上げてくださる神の救いを希求することが、彼らの信仰の中心となります。

 6節の1行目にある「高い・低い」の対比は、高く引き上げてくださる神の救いへの期待と信頼を表現します。2行目の「遠くから、高慢な者を見抜かれる」は、他の人々を「低く」見下し、虐げている者たちが、自分では「高く」いると思い上がっているにもかかわらず、天において「高くおられる」神からは「遠く」離れて低い位置にいることを皮肉を込めて表現しているようにも読めますね。この高慢な者に対して、主が「遠くから…見抜かれる」という表現は、物理的に遠いというよりも、彼らが主の御心から遠く離れている様子を描いています。

 神は、「苦難の中を歩んで」いる「私を生かし…敵の怒りを防ぎ…救ってくださる」方なのです。

 

3月11日

 本日は、東日本大震災から10年の節目の日です。「節目」と言っても、それで区切りがつくわけではありませんので、継続する苦難の中にいる方々を覚えたいと思います。詩編138篇は、(少なくとも現在の聖書の位置関係では)137篇の生々しい苦悩の叫びを受けて読むと、少し時間が経過して落ち着いた状況にも読めます。異教の神々の神殿がひしめく中で、異国の王たちの栄枯盛衰(アッシリア→バビロン→ペルシャ)を見ながら、変わらず世界を治めておられる神に信仰を告白し、賛美を捧げる様子が読み取れるのです。この変わらない神は、「低くされた者を顧みる」神です。

原発事故

 人間は(特に権力者は)、自分に都合の悪い事実を消し去り、表面を取り繕って解決を偽装します。東日本大震災の避難者は現在も4万人以上いると報道されますが、原発事故によって避難を余儀なくされた人たちの場合、「除染が済んだ」ということで政府による強制避難の指定が解除されると、支援が打ち切られて避難者の数として数えられなくなるようです(「きっこのメルマガ」の記事参照:https://www.mag2.com/p/news/489529)。除染についていえば、そもそも一般人の公衆被曝限度が年間1ミリシーベルトなのに対して、避難指示解除の基準は年間20ミリシーベルトですので、いわば胸部レントゲン検査室の中などの放射線管理区域内で飲み食いし、寝起きして、日常生活を送ることを強いるような馬鹿げた、というより無責任な政策、ということです。原発事故以外の地域(岩手県宮城県)では、震災による直接死(死亡者数+行方不明者数)に比べて「震災関連死」の数が1割以下なのに対して、福島県の場合は「関連死」の方が直接死を上回っており、しかも今だに年間数十人の方々が亡くなっていることから、強制移住や「自主避難」の影響が指摘されます(上述のメルマガ記事)。これは忘れてはならないことだと思います。

 除染といっても、住居の周りは除染しても山などは除染しませんので、実際に除染作業が行われたのは全体の15%にとどまるようですし、除染しても雨風等の環境内での移動によりホットスポットが各所に存在したり、また残念ながら一度除染した場所が再汚染することもあるようです。ということは、なるべく正確に安全な場所と危険な場所を把握するためには、放射線量を測定する地点を多く設定して継続して測定することが必要ですが、どうやら政府はこの測定地点を大幅に減らすようです(https://www.nsr.go.jp/data/000224268.pdf)。線量が十分に下がったから、ということが理由として挙げられていますが、そもそもモニタリングポストを設置する段階で、その周囲の表土を入れ替えて(つまり除染して)設置していますので、線量が低く出るという面もあると思います。(その他、除染が悪徳ビジネスの温床になっていたことも様々に報道されています。)除染に関する問題点は、国際NGOグリーンピースが報告書をまとめ、さらに廃炉計画に対しても問題点を指摘し、提言をしています:

https://www.greenpeace.org/japan/nature/press-release/2021/03/04/50468/

 また、つい先日報道された国連科学委員会による原発事故の影響に対する報告も、日本政府側のデータのみに基づいており、複数存在する独立した検査結果を無視したものとして、問題点が指摘されています:

https://news.yahoo.co.jp/byline/itokazuko/20131027-00029263/

 報道で「おや?」と思ったら、なるべく複数のソースを比較することが重要ですし、ネットで情報を得る場合にも、私自身はきちんとした機関や人物など、名前を名乗って発信している情報に目を通すようにしています。情報が錯綜する中、一つ一つ情報を確認して信頼できる情報を選び取るのは面倒ですが、そうしないと、いつの間にか怪しい情報に足元をすくわれてしまうような気がして、念には念を入れています。

「低くされた者」の視点による歴史記

 東日本大震災から10年を迎え、様々な報道がなされますが、私たちは原発事故に関連す問題についても関心を持ち続ける必要があると思います。聖書は、「救い」を単なる心の平安として語っているわけではなく、現実に抑圧から救出する神の働きとして描いているからです。祈祷会の学びの準備のために、中山教会の聖書通読箇所を読み進める中で、特に深く自覚するようになったことがあります。それは、聖書の歴史記述が、権力者の上から目線のプロパガンダではなく、「低くされた者を顧みる」神の視点、下からの視点で書かれているということです。この視点を大事にしながら、これからも聖書を読み続けたいと思います。

 

 

2021年3月7日 礼拝週報

本日の礼拝週報です

 3月7日(レント第三主日)の週報をお届けします。

 

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2021年3月7日 礼拝週報

「今週のみ言葉」の節番号修正

 週報の左下にある「今週のみ言葉」の節番号が先週のままでした。正しくは、13:10-13,16,18-19,21です。失礼いたしました。

 

お知らせ

 第7回コロナ時代のキリスト者生涯学習が3月21日(日)午後3時〜4時(すぎ)まで行われます。講師は安井聖先生(西落合教会・上池教会牧師)で、タイトルは「ルターに学ぶ FREEDOM〜YJ2021へのはじめの一歩〜」です。

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第7回コロナ時代のキリスト者生涯学習

YJ2021

 安井先生の講演のサブタイトルにある「YJ2021」は、YouthJam という、今年8月に恩来での開催が予定されている中高生〜青年向けのイベント(集会)のことです。4月1日から申し込みが始まりますので、詳細はこのブログでも追ってご連絡いたします。公式の情報は、以下からどうぞ。

note.com

2021年3月4日 祈祷会の学び(詩編131篇)

本日の祈祷会の学びの動画です

 先ほど終了した3月4日の祈祷会の学びのライブ配信動画を、ブログでも提供いたします。


2021年3月4日 祈祷会の学び

 

131篇

 数ある詩編の中で、131篇は133篇とともに、2番目に短いし変です。最短の詩編は117篇(2節だけ!)でした。119篇は176節まであり、3分割でも通読に難儀しますが、短いからと言って、重要さも低いというわけではありません。この131篇も、120-134篇の「都に上る歌/巡礼の歌」の一つです。

1節

 1節は、標題部分に「ダビデの詩」とあります。内容としては、ヤハウェの前にへり下る信仰者の姿を詠んだもので、詩人が「私の及ばない大いなること/奇しき業に関わることはしません」と主の前で宣言し、自らが驕り高ぶっていないことを示します。

 通常は神の奇跡的は業(天地創造出エジプト、捕囚からの帰還)などを指す表現が、ここでは人の目を引くような人間の偉業のような意味合いで使用されているようです(月本昭男『詩篇の思想と信仰』Ⅵ:78-79頁)。そこから、この詩人が「ごく平凡に生きてきた」存在であると読み取ることも可能でしょう(同書81頁)。

 標題の「ダビデの詩」からは、この詩の詠み手を、偉業を成し遂げたダビデ王とすることも示唆されますが、その場合、イスラエルの歴史において記念される偉業でさえも、主の前におごり高ぶる根拠にならない、という意味に取れるかもしれません。

2節

 「私は魂をなだめ、静めました」について、月本先生は次のように説明します。〔以下引用〕

原文「もし、私がわが魂を静め、沈黙させなかったとすれば」。元来、「自分はどうなってもかまわない」といった主文を省略した誓いの文体。つまり、強い肯定を表す省略構文。(79頁)

 この場合、どのような思い・感情を静めたのかがポイントになりそうです。1節との関連で考えれば、自らの偉業を根拠に驕り高ぶる人々に対して、例えば自分には誇るものは何もないと卑下したり、あるいは妬むような感情かもしれません(市井の人を詠み手として想定)。また、自分にも誇るべきものがあるにもかかわらず、他の人とは違って主の前にへりくだる場合には、自分の中にも、偉業を誇りたいという欲求がふつふつと湧いてくる状況も考えられるでしょう(ダビデ王のような偉人を詠み手として想定)。何れにせよ、詩人は自分の魂を静め、神の前にへりくだると語ります。

 この魂を静める状況を、詩人は「母親の傍にいる乳離れした幼子のように」という比喩によって表現します。原文の意味が明瞭でないために、古来様々な解決が図られてきたようですが、基本的には、(乳離れしてもなお)母親に依存する存在である幼子になぞらえて、詩人が自らの主に依存する存在を表現したと考えられます。個人的には、乳離れした幼子が母親の傍にいる状況は、まだ母乳に未練があるようなイメージなので、その未練を静める幼子のイメージと1節を関連づけて読めば、自らの偉業を誇る周りの人々を横目に見ながら、偉業を誇りたい衝動にかられる自らの魂を静める詩人の心理が読み取れるようにも思います(ちょっと読み込みすぎかもしれませんが、、、)。

 月本先生は、この「母親の傍にいる乳離れした幼子」という表現から、この詩編の元々の読み手が母親だったことを示唆します(82頁)。つまり、特に人目をひく偉業もなく、平凡に子育てをして生きてきた市井の新校舎の告白、ということです。そう理解すると、偉人ダビデ王の詩と読むよりも、一層この詩編に歌われる信仰の深みが増すように思います。

3節

 最後の3節は、唐突にイスラエルへの語りかけがなされます。目立つところのない、誇るもののない平凡な信仰者の姿と、大国の狭間で翻弄される弱小の民イスラエルの姿が重ね合わされて、ここに表現されているのでしょう。1人の詩人の生き様を歌った詩が、共同体の共通の信仰告白として祭儀に採用されていった過程を反映していると考えられます。

 主に依存し、主に信頼する詩人が(そしてイスラエルが)、自らの助けである主を待ち望むように、自らに呼びかけるこの発言は、エルサレム神殿に詣でて神の前で礼拝することを心待ちにする巡礼者の姿と重なります。

 

130篇

 前の『聖歌』には、『主よ深き淵の底より』(228番)というマルティン・ルターのコラール賛美が、J.S.バッハのアレンジで載っていましたが、残念ながら『新聖歌』には採用されなかったようです。『讃美歌21』(160番)にも、『教会福音讃美歌』(200番)にも、それぞれ採用されています(「深き悩みより」AUS TIEFER NOT)。嘆きの詩編として、レントにふさわしい気がしますね。

 この詩編もまた「都に上る歌」という標題がつけられている巡礼詩の一つです。ここでは、「主よ、あなたが過ち(咎)に目を留めるなら/…誰が耐えられましょう」(3節)と歌われており、罪をきっちり(その罪の分量に正確に対応して)処罰する神の姿が退けられています。神の本質は、罪を罰する厳密さにではなく、罪を赦す憐れみ深さにあり、それゆえにこそ「畏れられる」ということです(4節)。詩人が主の待ち望むのは、この赦しを待ち望むのであり、それは主の「慈しみ」と「豊かな贖い」のゆえだと説明されます(7-8節)。

 この「贖い」については、以前『聖書神学事典』の「贖い」の項目にも書きましたが(いのちのことば社、2010年:127-36頁)、聖書の「贖い」は、キッペールというヘブライ語動詞(ヒフィル形:強意)によって、祭儀的な罪の清めとしての側面が表現されます。カーファルは「覆う、拭う」といった意味ですが、キッペールは「祭儀を通して穢れとしての罪を拭い去る行為を表す」ものです(月本:74頁、河野:129-31頁も参照)。この詩編131篇では、4節で「赦す」という意味のサーラハが使用されていますが、月本先生によれば、これは「神ヤハウェによる罪の放免そのものを表す動詞」です(74頁)。旧約聖書では、サーラハは祭儀において「知らずして犯した罪を清める儀礼を定める規定の締めくくりに付される定型文『祭司がこうして彼/彼らのために罪を贖う儀式を行うと、彼/彼らの罪は赦される』(新共同訳)を構成する(レビ4:20,26,31,35; 5:10,13,16,18,26)」と説明されます。この祭儀法の文脈では、サーラハとキッペールが一緒に使われている点が特徴的です。月本先生は、この文脈のキッペールについて、「この一語が…『罪を贖う儀式を行う』と訳されるが、より厳密にいえば、この動詞は『罪を贖う』のではなく、『穢れ』と見なされた『罪』を儀礼的に『拭う』ないし『祓う』行為を指す」と説明します(74頁)。

 要するに、罪に対する罰を厳密に執行することによって、その罪への対処が完了するということではない、ということです。伝統的な贖罪論では、イエス・キリストの十字架上の死について、主イエスが私たちの身代わりに、罪の罰を受けてくださったことにより、私たちがその罰としての死を受けなくて済むようになったと説明します(刑罰代償説)。残念ながら、この考えは聖書の思想とはズレていると言わざるを得ないでしょう。神による赦しは、厳密な処罰を下した結果ではなく、罪を取り除くことによる赦しなのです。結構大事な点だと思います。

 主を待ち望む信仰者は、6節で朝が来るのを待ち望む「夜回り」(夜警)になぞらえられていますが、月本先生によると、「巡礼者たちの中には、エルサレム神殿境内の周囲に設けられた宿泊施設で世を過ごし(詩134:1参照)、ときには夜を徹して祈りを捧げる者もいた(詩17:3; 77:7他)」ということです(同書73頁)。それは、「『朝』はヤハウェの『裁定』がくだされ(エレミヤ21:12; ゼファニア3:5)、祈りが聞き届けられる喜びの時でもあった」ことに由来します(72-73頁)。130篇が巡礼詩とされているのは、こうした背景があるのですね。

宗教法人日本ホーリネス教団中山教会・ 〒273-0024 千葉県船橋市二子町604-1・ 牧師:河野克也 Katsuya Kawano