nakayama-holinessのブログ

日本ホーリネス教団中山キリスト教会の公式ブログです。

2021年5月30日 礼拝

5月30日(三位一体主日)の礼拝動画です

 先ほど終了した礼拝のライブ配信動画を、ブログでも提供いたします。


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「放蕩息子」

 聖書協会共同訳では、この譬え物語の見出しが「いなくなった息子」になっていますが、決してこの譬えの弟息子が「放蕩」したことを否定しているわけではありません。むしろ、この譬え物語のポイントがあくまでも「いなくなった息子」が見つかって大喜びする父親の方にあることを示す見出しにしている、ということだと思います。その前の2つの譬えの見出しと並べてみると、その繋がりがよくわかるでしょう。「見失った羊」、「なくした銀貨」、「いなくなった息子」。どれも皆、見つけて喜ぶ主人公の姿を強調する譬え物語になっています。

悔い改め?

 前の2つの譬えでは、それぞれ最後の締めの言葉に、「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めるなら…」と、全く同じ表現で悔い改めが強調されていますので、三つ目のこの譬えも、やはり悔い改めがテーマだと思いたいのですが、よく読んでみると、この弟息子の「悔い改め」については「?」が付きそうです。意地悪に読めば、17節の「我に返って」は、悔い改めというよりも、「なんだ、うちに帰れば食いっぱぐれることはないんだ」、と気づいたという風にも読めますね。その後の長いセリフも、さすがに息子として帰るわけにはいかないから、せめて雇い人の一人にでもしてもらえれば、食いっぱぐれることはない。少なくとも豚の餌よりはマシだ、という計算が働いたと言えなくもないと思います(これは相当意地悪な読みですが…)。とは言え、この父親は、弟息子がどれほど真摯に悔い改めたかについては、全く気にしていない様子です。遠くから(おそらくボロボロのみすぼらしい姿の)息子を見つけると、父親の威厳もかなぐり捨てて駆け寄り、息子として受け入れて大宴会を開いていますので、悔い改めの度合いに関係なく、はじめから受け入れるつもりだったとしか思えません。

 申命記21:18-21には、父親の言うことを聞かない「放蕩」息子は、町の門の長老のところに引っ張って行って、皆で石打ちの刑にせよとの命令が記されています。もちろん、旧約聖書の時代と状況は違うでしょうが、「身を持ち崩して財産を無駄遣いしてしまった」という、間違いなく「放蕩」息子を、ただただ喜んで受け入れる姿は、常識外れと思えるほどです。そして、おそらくそれが、この譬え物語のポイントなのでしょう。

兄息子は悪者か?

 聖書協会共同訳は、この放蕩息子を手放しで受け入れて大宴会を開いて喜んでいる父に対して、兄息子が放った言葉を、皮肉たっぷりに訳しています。「…ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身代を食いつぶして帰ってくると、肥えた子牛を屠っておやりになる」、という具合です。「おやりになる」とは、なかなか見事な訳ですね。確かに皮肉の一つも言いたくなるでしょう。

 この兄息子が父親に対して言った、「私は何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません」との言葉は、父親の権威が圧倒的だった古代の社会では当然期待されることであり、それをきちんと守っているということですから、理想的な息子として評価されるべきものでしょう。当時の社会通念上、真っ当なのは、この兄息子の方です。あまり心理的に深読みして、この兄息子が父親に対して屈折した感情を抱いていたという風には読まなくても良いのかもしれません。

父の常識外れな憐れみ深さ

 真っ当でないのは弟息子ですし、さらに言えば、その弟息子を手放しで受け入れる父親も、真っ当ではありません。しかし、その父親の姿を、主イエスは敢えて、父なる神の憐れみ深さとして描くのです。聞いていた人たちは、どれほど驚いたことでしょう。この譬え物語は、まず、私たち自身がこの常識外れの憐れみ深さによって見出され、受け入れられたことに気づくように招いています。また、この常識外れの憐れみ深さを、今度は私たち自身が実践するように招いているのではないでしょうか。兄息子にいった父親の言葉が、この譬え物語の締めの決め台詞です。「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。喜び祝うのは当然ではないか。」

2021年5月30日 礼拝週報

5月30日(三位一体主日)の礼拝週報です

 本日の礼拝週報をお届けします。本日は、聖霊降臨後第一主日/三位一体主日になります。

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2021年5月30日 礼拝週報

 

三位一体主日

「三位一体」は、もちろんキリスト教の基本教理ですが、先週の日曜日が聖霊降臨日ということで、父と子と聖霊の三つの位格が揃った(?)という感じでしょうか? 当然ながら、三位一体の教理では三つの位格はそれぞれ永遠の存在ですので、決して時間差で生じるわけではありません。紀元325年のニカイア公会議では、御子なるイエス・キリストが、その神としての本質において父なる神と「同一」(homoousion)であるということが全会一致で決定されました。この背景には、イエスは父なる神と「神的目的」において一致しているだけであり、その本質(ousia)においては「類似」(homoiousion)の存在であるに過ぎないと主張する、アレイオス派との論争がありました。この第1回ニカイア公会議では、ニカイア信条が採択されますが、その最後には、「イエスが存在していない時があった」とか、「イエスは造られる以前には存在していなかった」とか、「別の実体である」とか、「変わり得る」などという輩は、教会から非難される、という「あとがき」(というか「呪い」の宣言)が付記されています(恐ろしや〜)。

 

お知らせ諸々

 週報の「お知らせ」欄にあるオンラインイベントのうち、6月20日のホーリネスオンラインセミナーと、6月27-28日のホーリネス弾圧記念聖会のチラシを掲載します。

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6月20日:ホーリネスオンラインセミナー

 

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第29回ホーリネス弾圧記念聖会

 

2021年5月27日 祈祷会の学び(イザヤ書14章)

5月27日の祈祷会の学びの動画です

 先ほど終了した祈祷会の学びのライブ配信動画を、ブログでも提供いたします。


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バビロンに対する託宣

 イザヤ書13-14章は、バビロンに対する託宣です。聖書協会共同訳の見出しでは、13章が「バビロンの裁き」、14章1-23節が「バビロンの滅亡」となっています。

 先週読んだ7章は、アッシリア帝国が勢力を拡大して南下して来た時代に語られた預言の言葉です。ユダ王国の北に位置するイスラエルとアラムが反アッシリアの軍事同盟を結んで抵抗を試みる中、その反アッシリア同盟に加わらないユダ王国に対して怒ったイスラエルとアラムが攻め下って来ようとする状況で、恐れおののくユダ王アハズと民に対して、イザヤはアラムもイスラエルもまもなく滅びると告げ、神に信頼するように促します。

 今週の14章は、アッシリアの後に勢力を拡大し世界帝国となるバビロンに対して、その傲慢と横暴を非難し、裁きを告げる言葉です。イザヤ書は全体として詩の文体(韻文)で書かれていますが、37-39章は例外的に通常の文体(散文)で書かれている歴史記述になっていて、その39章では、病気から回復したヒゼキヤ王を訪ねて来たバビロンの使者たちに対して、喜んだヒゼキヤ王が王宮の宝物庫や倉庫にあるものを見せびらかした(?)ことと、その不用意な行動に対して、いずれそれらの宝が全てバビロンに運び去られる時が来ると言ってバビロン捕囚を予告した言葉が書かれています。もともとバビロンは、アブラハム一族の出身地としてカルデアのウルの名前が創世記12章に記されているように、アッシリアが栄える前からある古くからの帝国でしたが、イザヤ書が書かれた紀元前8世紀にはネオ・バビロニアとして勢力を拡大していたわけです。アッシリアがそうだったように、このネオ・バビロニアもまた、大国として周辺諸国を軍事的に支配し、抑圧したことで、その傲慢を非難されるようになります。

 

 13章11節には、そのことが端的に表現されます。

  私は、世界をその悪のゆえに罰し/悪人たちをその罪のゆえに罰する。

  私は傲慢なものが高ぶるのをやめさせ/横暴な者の高慢をおとしめる。

 

 また14章11-15節でも、同様の裁きの言葉が記されます。

  お前の高慢/竪琴の音は陰府に落とされた。

  蛆がお前の下に敷かれ/虫がお前の覆いとなる。

  ああ、お前は天から落ちた。/明けの明星、曙の子よ。

  お前は地へと切り倒された。/諸国民を打ち倒した者よ。

  お前は心の中で言った。

  『私は天に上り/神の星々より上に王座を高く据えよう。

  そして北の果てにある集会の山に座し

  雲の頂に登り/いと高き方のようになろう』と。

  しかし、お前は陰府へと/その穴の底へと落とされる。

 

傲慢=ルシファー

 14章12節の「明けの明星」という表現は、後の黙示思想の文書において、神に反逆して天から落とされた堕天使の長を指すものとして理解されるようになります。もともとラテン語訳の lucifer は、光(lux)を運ぶ(ferre)という意味の言葉で金星(明けの明星)を指していたのですが、後にその単語がそのまま堕天使=サタンの名前となります。有名なところでは、ダンテの『神曲』やミルトンの『失楽園』の中で、ルチフェロ/ルシファーなど、カタカナ表記で出て来ます。この辺りの説明は、日本語版Wikipediaの記事「ルシファー」でもわかりやすく紹介されています。

ルシファー - Wikipedia

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ギュスターヴ・ドレ:ミルトン『失楽園』挿絵

 この表現は、イザヤ書のもともとの文脈では大国のバビロンを指し、後にはサタンを指す言葉として、それぞれ指示対象が限定されますが、しかし、この箇所は大国やサタンだけに限定して読むべきではないでしょう。そこで非難されているのは、他国/他者を食い物にして豊かになる姿であり、「いと高き方のようになろう」とする驕り高ぶりですので、これは人間の心の中に(多かれ少なかれ)存在する罪の性質を指していると考え、自分にも向けられているものとして読むべきでしょう。あるいは、もう少しイザヤ書を遡って、11章の狼と子羊がともに宿る平和のヴィジョンの表現を(裏返して)使うなら、「主を知ること」が欠けているために、互いに「害を加え、滅ぼす」状態を指している、と言っても良いでしょう。

 

歴史における神への信頼

 イザヤ書13章から23章は「諸国民に対する預言」として一つのまとまりをなしていて、そこでは様々な国が言及されますが、当時の国際情勢に翻弄されていたユダの民の様子が伺い知れるように思います。預言の言葉は、決して真空状態で語られて言葉ではなく、具体的な(生々しい)パワーポリティクスの状況下で語られたものであり、また単純に心の平安・平静を語っているものではなく、目に見える力に頼ることを傲慢として退け、目に見えない神に信頼することを呼びかけるものです。こうした具体的な預言の言葉を、あまり性急に精神化したり、一足飛びに新約時代の救い主イエスの誕生に結びつけるのではなく、まずは旧約聖書の預言の言葉として、そのもともとの文脈の中で理解することを心がけたいと思います。

 

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聖書協会共同訳聖書巻末地図:1古代近東

(色味が少しずれていて見づらいですが、緑の部分がヒッタイト(ヘト人)、紫の部分がアッシリア、オレンジの部分がバビロンです。)

 

2021年5月23日 礼拝

5月23日(聖霊降臨日)の礼拝動画です

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ペンテコステ

 本日は、聖霊降臨日です。この日はもともと、ユダヤ教の三大巡礼祭の一つの「七週祭」ですが、春の最初の祭である過越祭から七週目(50日目)ということで、「五旬際」とも呼ばれ、そのギリシア語「ペンテコステ」が、キリスト教会の側の呼称となっています。聖書協会共同訳では、このユダヤ教旧約聖書)の祭を「刈り入れの祭」と訳していますが、逆に分かりにくくなったような気がしないでもないですね。確かに、遡れば小麦の収穫を祝う農耕祭が起源ではあるのですが、旧約聖書では、エジプトから解放されたイスラエルに、シナイ山で律法が授与されたことを記念する祭として大切にされています。

 いずれにせよ、キリスト教会にとってこの日は、弟子たちの上に聖霊が注がれて、彼らが恐れから解放され、主イエス・キリストを力強く証ししたことによって教会が始まったことを記念する大切な日です。

 礼拝説教は、ルカ福音書24章48-49節と、使徒言行録1章6-8節から、聖霊が注がれる目的として、罪の赦しを得させる悔い改めに招くということが重要です。「エルサレムから始まって…」(ルカ24:48; 使徒1:8参照)、また「すべての民族に/地の果てまで」(ルカ24:48/使徒1:8)という表現は、神が遣わしたメシア・イエスを十字架につけて殺したエルサレムの神殿当局(エルサレム)とローマ総督当局(地の果て?)双方に対して、悔い改めを迫る意図があるように思います(ルカ20:20参照)。この日の出来事は、弟子たちが恐れから解放されて宣教の担い手となったように、私たちも聖霊が注がれて、同じように宣教の担い手となることを示しているのです。

2021年5月23日 礼拝週報

5月23日(聖霊降臨日)の週報です

 本日の礼拝週報をお届けします。

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2021年5月23日 礼拝週報

ユースジャム関連

 Youth Jam 2021 のための「プレジャム全国大会」が本日午後に予定されています(16時から18時)。すでに申し込み期限はすぎておりますが、参加する方々のためにお祈りください。また28日(金)の夜には、Youth Jam 2021 Prayer Meeting が予定されています。こちらは申し込み期限が前日まで、対象者は牧師、信徒、保護者で、先着100名までとなっています。

 Youth Jam 2021 自体は、8月12日(木)から14日(土)にかけてオンラインで行われますので、参加する青年たちのため、スタッフのため、お祈りください。

2021年5月20日 祈祷会の学び(イザヤ7章)

5月20日の祈祷会の学びの動画です

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イザヤ書7章の背景

 イザヤ書は(雅歌と違って?)、比較的クリスチャンに馴染みの深い書だと思います。クリスマス前のアドヴェントの季節には(またイヴ礼拝などでは)、たいていイザヤ書7章、9章、11章の一部が、救い主イエス・キリストの誕生を予告した預言の言葉として朗読されますし、イースター前のレントの期間、特に直前の受難週には、イザヤ書53章が、主イエス・キリストの受難を予告した預言の言葉として朗読されます。というわけで、これらの箇所は直接私たちの信仰に関連すると考えて、イザヤ書を大切な書と見なしているのです。

 それは信仰的に非常に重要な視点ではあるのですが、そのように一足飛びに結びつけて読んでしまうと、イザヤが預言の言葉を語ったときの状況が抜け落ちてしまい、その時に神様がユダ王国の人々に具体的に何を求めて語りかけたのかが分からなくなってしまいます。

 この祈祷会の学びでは、中山教会の聖書通読のスケジュールに沿って、基本的に1章ずつ読み進めますので、イザヤ書を、まずイザヤ書自体の歴史的な状況において理解し、そこで語られた言葉の元々の意味合いを味わうことを優先したいと思います。

 

ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤ

 イザヤ書1章1節は、預言者イザヤが活動した地域と時代について、「アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて見た幻。ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤがユダの王であった時代のことである」と記します。西暦で言うと、紀元前8世紀です。ウジヤ王は列王記ではアザルヤと呼ばれていますが(列王記下15:1-7//歴代誌下26章)、晩年は「規定の病」(律法で宗教的穢れを帯びると規定された病)にかかり、政治の表舞台から去ったことで、「王の子ヨタムが宮廷長として国の民を治めた」と説明されます(列王下15:5)。ウジヤ王の治世は紀元前787-736年ですが、晩年のヨタムに摂政期までとすれば、756年までとなります。ヨタムの治世は、この摂政時代(宮廷長)も含めると紀元前756-741年、アハズは紀元前741-725年、ヒゼキヤは紀元前725-697年です。時代はちょうどアッシリア帝国が勢力を拡大し、パレスチナの地域の国々を征服するようになる時代です。

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分裂王国時代②:預言者イザヤの活動期

 

ウジヤ王が死んだ年(前736年)

 イザヤ6章1節にある「ウジヤ王が死んだ年」は、紀元前736年ですから、アハズ王の治世となりますが、列王記でも歴代誌でもアハズは主の御心に背いた悪王とされています。列王記16章を見ると、アハズ自身が積極的にアッシリア帝国支配下に下って属国となり、わざわざダマスコまでアッシリア王ティグラト・ピレセルを表敬訪問し、そのダマスコにある神殿の祭壇の図面を貰い受けて、それと全く同じものをエルサレム神殿に作り、神殿祭儀を変更したことが書かれています。念には念を入れてアッシリアに気に入られようとしている、痛々しい姿にも見えますね。イザヤが神殿で主なる神の幻を見て、預言者としての再召命を受けたのは、この神殿改築(改悪)の直前だったのでしょうか? いずれにせよ、伝統的なヤハウェ宗教がアッシリアの異教祭儀に駆逐されつつあった時代のことだと言えるでしょう。かつて神様に仕えた信仰深いウジヤ王の死は、イザヤにとって、このヤハウェ宗教の衰退を象徴するような深刻な出来事として受け取られ、大きな危機感を抱いたのだと思います。

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アッシリア帝国の覇権(『コンサイス聖書歴史地図』30頁)

 

イザヤ7章の背景:シリア・エフライム戦争

 イザヤ7章はアハズの治世に語られた預言ですが、具体的には、迫り来るアッシリアの脅威に対して、ユダ王国の真上にある北王国イスラエル(エフライム)と、その上にあるアラム(シリア)とが軍事同盟を結んで、共同で対抗しようと画策していた時期のことです。大国アッシリアに対抗するためには、なるべく多くの国が力を結集する必要があると考えて、シリア=エフライム同盟はユダの王アハズにも参加を呼びかけますが、アハズはアッシリアには勝ち目がないと判断したのでしょう(多勢に無勢?)、この弱小国連合軍には参加せず、むしろアッシリアにすがって、属国として生き延びることを選択したようです。

 イザヤ7章は、この誘いを拒んだユダに対して、怒ったシリア=エフライム連合軍が攻めて来るという緊迫した状況を反映します。アラムとイスラエル(シリアとエフライム)が同盟を結んだという知らせに王も民も動揺したと書かれている通りです(イザヤ7:2)。

 神がイザヤを通して語った言葉は、目に見える軍事同盟の脅威に怯えるあまり、目に見える軍事大国アッシリアにすがるのではなく、目に見えないが何よりも確かな主に信頼することを招く言葉でした。次の王が生まれるまでには、アラム(首都はダマスコ、王はレツィン)も、エフライム(=北イスラエル:首都はサマリア、王はレマルヤの子ペカ)も、脅威ではなくなる(アッシリアに滅ぼされる)ということで、この生まれてくる子は「私たちと共に〔おられる〕神」を意味する「インマヌエル」(インマーヌー・エール)と呼ばれるのです。

インマヌエル預言の意義

 イザヤ7章のこの預言が、具体的な政治的軍事的脅威の状況において語られた言葉であることをまず理解することが大切だと思います。主イエス・キリストが「インマヌエル」と呼ばれるのも、同様に、政治的軍事的脅威であるローマの支配下(影響下)にある時代において語られた言葉でした。現代も、日米同盟の強化や中国との関係改善など、具体的な政治的軍事的状況下で何が最善の選択肢かを巡って、メディアでは様々な議論がなされています。インマヌエル預言は、かつてそうだったように、現代においても、そうした具体的な状況に対して語りかけるものなのです。信仰と政治を切り離す理解は、この預言の言葉を単なる精神安定剤にしてしまうのではないでしょうか?

2021年5月16日 礼拝

5月16日(昇天の主日)の礼拝動画です

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Youth Jam Prayer Meeting

 ユースジャムのためのオンラインのお祈り会が計画されています。チラシを掲載しますので、ご覧くださり、ご参加ください。

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Youth Jam 2021 Prayer Meeting

 

宗教法人日本ホーリネス教団中山教会・ 〒273-0024 千葉県船橋市二子町604-1・ 牧師:河野克也 Katsuya Kawano