nakayama-holinessのブログ

日本ホーリネス教団中山キリスト教会の公式ブログです。

2021年5月27日 祈祷会の学び(イザヤ書14章)

5月27日の祈祷会の学びの動画です

 先ほど終了した祈祷会の学びのライブ配信動画を、ブログでも提供いたします。


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バビロンに対する託宣

 イザヤ書13-14章は、バビロンに対する託宣です。聖書協会共同訳の見出しでは、13章が「バビロンの裁き」、14章1-23節が「バビロンの滅亡」となっています。

 先週読んだ7章は、アッシリア帝国が勢力を拡大して南下して来た時代に語られた預言の言葉です。ユダ王国の北に位置するイスラエルとアラムが反アッシリアの軍事同盟を結んで抵抗を試みる中、その反アッシリア同盟に加わらないユダ王国に対して怒ったイスラエルとアラムが攻め下って来ようとする状況で、恐れおののくユダ王アハズと民に対して、イザヤはアラムもイスラエルもまもなく滅びると告げ、神に信頼するように促します。

 今週の14章は、アッシリアの後に勢力を拡大し世界帝国となるバビロンに対して、その傲慢と横暴を非難し、裁きを告げる言葉です。イザヤ書は全体として詩の文体(韻文)で書かれていますが、37-39章は例外的に通常の文体(散文)で書かれている歴史記述になっていて、その39章では、病気から回復したヒゼキヤ王を訪ねて来たバビロンの使者たちに対して、喜んだヒゼキヤ王が王宮の宝物庫や倉庫にあるものを見せびらかした(?)ことと、その不用意な行動に対して、いずれそれらの宝が全てバビロンに運び去られる時が来ると言ってバビロン捕囚を予告した言葉が書かれています。もともとバビロンは、アブラハム一族の出身地としてカルデアのウルの名前が創世記12章に記されているように、アッシリアが栄える前からある古くからの帝国でしたが、イザヤ書が書かれた紀元前8世紀にはネオ・バビロニアとして勢力を拡大していたわけです。アッシリアがそうだったように、このネオ・バビロニアもまた、大国として周辺諸国を軍事的に支配し、抑圧したことで、その傲慢を非難されるようになります。

 

 13章11節には、そのことが端的に表現されます。

  私は、世界をその悪のゆえに罰し/悪人たちをその罪のゆえに罰する。

  私は傲慢なものが高ぶるのをやめさせ/横暴な者の高慢をおとしめる。

 

 また14章11-15節でも、同様の裁きの言葉が記されます。

  お前の高慢/竪琴の音は陰府に落とされた。

  蛆がお前の下に敷かれ/虫がお前の覆いとなる。

  ああ、お前は天から落ちた。/明けの明星、曙の子よ。

  お前は地へと切り倒された。/諸国民を打ち倒した者よ。

  お前は心の中で言った。

  『私は天に上り/神の星々より上に王座を高く据えよう。

  そして北の果てにある集会の山に座し

  雲の頂に登り/いと高き方のようになろう』と。

  しかし、お前は陰府へと/その穴の底へと落とされる。

 

傲慢=ルシファー

 14章12節の「明けの明星」という表現は、後の黙示思想の文書において、神に反逆して天から落とされた堕天使の長を指すものとして理解されるようになります。もともとラテン語訳の lucifer は、光(lux)を運ぶ(ferre)という意味の言葉で金星(明けの明星)を指していたのですが、後にその単語がそのまま堕天使=サタンの名前となります。有名なところでは、ダンテの『神曲』やミルトンの『失楽園』の中で、ルチフェロ/ルシファーなど、カタカナ表記で出て来ます。この辺りの説明は、日本語版Wikipediaの記事「ルシファー」でもわかりやすく紹介されています。

ルシファー - Wikipedia

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ギュスターヴ・ドレ:ミルトン『失楽園』挿絵

 この表現は、イザヤ書のもともとの文脈では大国のバビロンを指し、後にはサタンを指す言葉として、それぞれ指示対象が限定されますが、しかし、この箇所は大国やサタンだけに限定して読むべきではないでしょう。そこで非難されているのは、他国/他者を食い物にして豊かになる姿であり、「いと高き方のようになろう」とする驕り高ぶりですので、これは人間の心の中に(多かれ少なかれ)存在する罪の性質を指していると考え、自分にも向けられているものとして読むべきでしょう。あるいは、もう少しイザヤ書を遡って、11章の狼と子羊がともに宿る平和のヴィジョンの表現を(裏返して)使うなら、「主を知ること」が欠けているために、互いに「害を加え、滅ぼす」状態を指している、と言っても良いでしょう。

 

歴史における神への信頼

 イザヤ書13章から23章は「諸国民に対する預言」として一つのまとまりをなしていて、そこでは様々な国が言及されますが、当時の国際情勢に翻弄されていたユダの民の様子が伺い知れるように思います。預言の言葉は、決して真空状態で語られて言葉ではなく、具体的な(生々しい)パワーポリティクスの状況下で語られたものであり、また単純に心の平安・平静を語っているものではなく、目に見える力に頼ることを傲慢として退け、目に見えない神に信頼することを呼びかけるものです。こうした具体的な預言の言葉を、あまり性急に精神化したり、一足飛びに新約時代の救い主イエスの誕生に結びつけるのではなく、まずは旧約聖書の預言の言葉として、そのもともとの文脈の中で理解することを心がけたいと思います。

 

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聖書協会共同訳聖書巻末地図:1古代近東

(色味が少しずれていて見づらいですが、緑の部分がヒッタイト(ヘト人)、紫の部分がアッシリア、オレンジの部分がバビロンです。)

 

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