nakayama-holinessのブログ

日本ホーリネス教団中山キリスト教会の公式ブログです。

4月23日祈祷会の学び

4月23日 列王記上5章

 日本ホーリネス教団中山キリスト教会のオンライン祈祷会です。祈祷会と言っても、いつも教会で行なっていたような賛美も祈りの時間もなく、聖書の学びの部分だけなのですが、何もないのも寂しいので、このような形ででも続けていきたいと思います。

 中山教会の聖書通読では、今日の箇所は列王記上の5章です。列王記に入る初回ですので、少し前後を広く取って、サムエル記下の最後辺りから見ていきたいと思います。

 


2020年4月23日祈祷会の学び

 

ダビデの最晩年:人口調査

 ダビデの最晩年のエピソードとして、サムエル記下24章は、ダビデによる人口調査について報告します。1節で開口一番、「主の怒りが再びイスラエルに対して燃え上がった」と言われていますが、これは戦争に参加できる兵士の数を登録することにより現時点での軍事力を確認するという作業ですので、主なる神に信頼するよりも目に見える軍事力を頼りにするという、不信仰の表れということになります。2節では、主が「ダビデを唆(そそのか)して民に向かわせ」たとありますから、イスラエルの民が、軍事力ではなく神を信頼しているかどうかを試したということでしょう。部下であるヨアブが王に人口調査を思いとどまらせようとしたものの、王の命令には反論できず、結局、人口調査は行われ、神の怒りが下ることとなります。このエピソードは、目に見えることに惑わされず、目に見えない神に信頼することが、人間にとってどれほど難しいことかを示していると思います。

王位継承争い

 列王記上1-2章に描かれるアドニアの王位継承計画は、サムエル記下15-19章に描かれるアブシャロムの反乱と繋がります。アドニアはアブシャロムの弟であることから、サムエル記下12章で預言者ナタンがダビデに告げた災いの一環であると理解できるでしょう。異母兄弟であるソロモンよりも自分が王にふさわしいと考えたアドニアは、ダビデの家臣ヨアブ(あのバト・シェバの件で、ダビデの命令に従ってウリヤを戦死させた指揮官)と、祭司エブヤタルを筆頭に、支持者を集めて大宴会を催します(即位記念でしょうね)。

 一方、預言者ナタンは、ソロモンこそが正当な王位継承者であるとの確信から、事の次第をバト・シェバに告げ、ダビデ王にも告げて、アドニアの即位を阻止しようと試みます。ダビデ王の命を受けて、ナタンは正式にソロモンに油を注ぎ、その即位を正式に宣言します。これにより、アドニアは反逆者ということになり、命を狙われることを恐れて、祭壇の角を掴みます。祭壇の角を掴むということは神による保護を表しますが、ソロモンはアドニアが自分の家に帰ることを許可します(つまり、彼を殺さないという約束が前提されていると思います)。

 ところがその後、アドニアは、ソロモンの母バト・シェバを通して、ダビデ王の晩年に添い寝をしたアビシャグを妻とすることをソロモンに願い出ます。おそらく自分の立場の正当化ないし保証、あるいは別の機会に王位を狙う足掛かりを求めたということでしょう(列王記下2:15では、いまだに王位を自分のものだと主張しています)。ソロモンはそれに対して怒り(アドニアが自分の約束の言葉を信用しないで、別の形で身の安全を図ったから?)、彼を処刑します。人間的な計算と血なまぐさい粛清で自分の王位の基盤を固めるソロモンの姿は、果たして私たちが倣うべき模範と言えるかどうか、冷静に考える必要がありそうです。

ダビデの最晩年:復讐の命令

 ソロモンに見られる罪深さは、父ダビデも負けていません(同じDNA?)。かつて息子アブシャロムが謀反を起こして王位を強奪した際に、ダビデエルサレムを追われて都落ちしますが、その際、サウルの一族のシムイがダビデを呪い、石を投げ、塵をかけて、ダビデに屈辱を味わわせます(サムエル記下16:5-14)。その際、ダビデはその出来事を、神がお許しになったこととして甘んじて受けます(10-12節)。のちにアブシャロムが戦死し、ダビデエルサレムに戻ってくる際には、王権を回復したダビデの恨みを買って処刑されることを恐れたシムイは、急いでヨルダン川までダビデを迎えに行き、命乞いをします(19:16-21)。なんという変わり身の早さでしょうか。ダビデは、処刑を求める家臣をたしなめて、シムイに対して殺さないことを誓います(23-24節)。ところが、です。死の間際になって、ダビデは自分が「主にかけて誓った」この誓いを覆して、王となったソロモンに、シムイの処刑を命じます(列王記上2:8-9)。なんという変わり身の早さでしょうか。

神のみ心を知る

 ダビデの最晩年とソロモンの王位継承の一連の出来事を読みながら、果たしてこの二人の行動が、どこまで神の御心を反映しているだろうかと、疑問が湧いてきます。興味深いことに、これらのエピソードにおいて、「神は言われた」とか、「主はお命じになった」といった表現は、ほぼ見当たらないのです。二人とも、人間的な恨みや怒りの感情に支配されて、復讐を成し遂げたということでしょうか? これらのエピソードを個別に見ているだけでは、どのように解釈すべきかを確実に知ることは難しいでしょう。これから列王記を読み進める中で、折に触れてこの問題に立ち戻って考えて見たいと思います。サムエル記に王政批判の視点が貫かれていたように、列王記もまた、(王政のプロパガンダではなく)王政批判の視点が読み取れるのではないかと思っています。

 

 

宗教法人日本ホーリネス教団中山教会・ 〒273-0024 千葉県船橋市二子町604-1・ 牧師:河野克也 Katsuya Kawano