nakayama-holinessのブログ

日本ホーリネス教団中山キリスト教会の公式ブログです。

10月31日の礼拝説教の補足

1.「ダビデとゴリアト」について

 10月31日の礼拝説教で取り上げた、サムエル記上17章にある「ダビデとゴリアト」の箇所について、少しばかり補足をします。この場面は、ペリシテ人の軍隊にいる巨大な兵士ゴリアトがイスラエル軍の兵士たちに一騎討ちを呼びかけ、イスラエルの神を冒瀆する発言を繰り返す中、イスラエル軍からは誰一人ゴリアトの挑発に応じるものがいない、という状況です。そこへ、兵役に就いている兄たちの安否確認に来たダビデは、ゴリアトの冒瀆の言葉に憤り、一騎討ちに名乗りを上げます。そこで、サウル王がダビデに語った言葉が33節です。

 

聖書協会共同訳:お前が出て行って、あのペリシテ人と戦うことなどできない。お前は少年だし、彼は少年のときからの戦士なのだ。

新共同訳:お前が出てあのペリシテ人と戦うことなどできはしまい。お前は少年だし、向こうは少年のときから戦士だ。

口語訳:行ってあのペリシテ人と戦うことはできない。あなたは年少だが、彼は若いときからの軍人だからです。

新改訳2017:おまえは、あのペリシテ人のところへ行って、あれと戦うことはできない。おまえはまだ若いし、あれは若いときから戦士だったのだから。

ヘブライ語(後半部分):キー・ナアル アッター、ヴェフー イーシュ ミルハマー ミンネウラーヴ。

私訳:なぜなら、おまえは若者で、彼は彼の若者の頃から戦士だからだ。

 

 ヘブライ語「ナアル」は、「少年」と訳すこともできますが、「若者」と訳すこともできます。結構幅広く使える単語のようです。聖書協会共同訳と新共同訳が「少年」と訳し、口語訳が「年少」と訳していることから、子供をイメージするかもしれませんが、説教でも説明した通り、サウルが自分の鎧兜や武具一式をダビデに提供しようとしていることや、それに対してダビデ自身が、正規の兵士の装備に慣れていないことを理由に断っていること、さらに、ダビデが羊飼いとして、羊を守るために繰り返し野獣を殺してきたことを強調していることから判断すると、この時点でダビデが「少年」、つまり子供だったと想定することはできません。むしろ、サウルと比べても引けを取らない体格の屈強な若者だったと考えるべきでしょう。

 教会学校のお話や紙芝居、絵本などは、聴衆/読者が子どもということもあり、ダビデを「少年」として描いた方が子どもたちが感情移入しやすい、という判断も働いたかもしれませんが、敵軍の最強の兵士の首を文字通り切り取る場面に感情移入させてはダメでしょう。確かにこの場面は、西洋絵画ではよく描かれるモティーフですが(結構グロテスクです)、個人的には、現代において、どうしてもこの場面のダビデを英雄的に語ることはできません。

 説教で、ダビデは少年ではないと明言しましたので、聖書協会共同訳と新共同訳が「少年」と訳していることについて、念のため補足説明をいたしました。

 

2.サムエル記〜列王記、歴代誌

 ライブ配信の動画では、説教の中で繰り返し、歴代誌の視点と対比させて「列王記では…」と言っていましたが、正確には「サムエル記では…」になります。対比のポイントは、ダビデの道徳的信仰的問題点を赤裸々に描くか、それともそこにはあまり踏み込まないか、という点なのですが、ダビデ王の物語が実際に描かれるのは、列王記ではなくサムエル記の方です。歴代誌が、ダビデの戦争における流血を問題視したことが、サムエル記&列王記では強調されない視点ということで、説教ではその対比を印象づけようとしておりました。

 ライブ配信では「列王記では…」と連呼していましたので、後に編集した動画では、その部分を何とかうまく(?)削除しておきました。

 サムエル記ではバト・シェバの一件や、アブシャロムの反逆をめぐるダビデの対応、晩年の人口調査(兵力調査)など、人間としての弱さが遠慮なく描かれますが、列王記になると、特にダビデ家の流れを引く南ユダ王国の王たちの評価において、ダビデの信仰が基準(模範)となります。例えば列王記上15章3節では、ユダ王アビヤムについて「父祖ダビデの心とは異なり…」と否定的に評価される一方、列王記下14章3節では、ユダ王アマツヤについて「父祖ダビデほどではなかった」と、比較的行為的な評価を下しています。

 分裂王朝時代の王の評価基準に格上げされたダビデ像は、サムエル記の描写とは距離があるようにも思えますが、それでも、サムエル記と列王記は視点において大幅に重なるところがあると考えられています。申命記に描かれる視点によって一貫した歴史記述がなされているとして、ヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記を「申命記史書」(Deuteronomistic History)と呼び、統一的な歴史書として扱うことが旧約聖書学における一般的な理解となっていますので、何となく頭の中でサムエル記と列王記を一緒にしていました。というわけで、間違いというほどでもない、と言うことです(言い訳っぽい?)。

 

 

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