nakayama-holinessのブログ

日本ホーリネス教団中山キリスト教会の公式ブログです。

2020年11月12日 祈祷会の学び

ライブ配信した祈祷会の学びです

 先ほど終了した祈祷会の学びのライブ配信動画を、ブログでも提供いたします。


2020年11月12日 祈祷会の学び

 

詩編21篇(王の詩編

 本日の中山教会の聖書通読箇所は、詩編21篇です。この詩編は「王の詩編」と呼ばれるもので、主に信頼する王を主が祝福してくださることを歌ったものです。1節の標題の後、2-8節の前半は王の戴冠式を描いているようです。後半9-13節は、一般的な仕方で、主が王を敵の手から守られることを歌っています。この詩編は、ダビデによる統一王国以降のイスラエル王国時代の状況を反映していますが、決して王個人や王制それ自体を賛美するものとして読むべきではないでしょう。むしろ14節にある、主に対する賛美の言葉が、この詩編全体を支えていると思います。

王制への二つの視点

 この詩編やその他の王の詩編では、王による支配としての王制、また王が肯定的に描かれます。それは、ダビデ以降の王のもとでの繁栄を背景にしたものですが、ダビデの息子ソロモン王の死後に南北王朝に分裂し、それぞれアッシリア帝国(北イスラエル:紀元前722年)、ネオバビロニア帝国(南ユダ:紀元前587年)に滅ぼされるという、王国滅亡の危機に際して、ダビデに対する神の永遠の約束(ダビデ契約)を根拠に、神に守りを祈る切迫した詩編も、あるいは王国の滅亡とバビロン捕囚を経験して、なぜ神はダビデ契約にもかかわらずこのような事態をお許しになるのか、といった嘆きの詩編も歌われますが、いずれにしても王制に対する肯定的な思想が反映されています。あるいは、士師記の最後にある「その頃、イスラエルには王がいなかった。そして、おのおのが自分の目に正しいと思うことを行なっていた」(士師21:25; 参照17:6; 18:1)という発言は、士師記の最終的な編纂者が、この王の詩編に連なるような王制に対する肯定的な視点から、士師記全体を総括するようにして述べたものでしょう。わかりやすく言えば、「王がいなかったので、人々は好き勝手にしていた」、ということでしょうか?

 これに対して、サムエル記上8章に描かれている、王を求める民に対する主の警告をみると、根本的に王制に対して懐疑的また批判的な視点がはっきりと打ち出されています。民が、自分達を守るために陣頭に立って、体を張って戦ってくれる頼もしい王を願うのに対して、サムエルが告げる現実の王は、民の息子を徴兵して最前線に送り、王を守らせるという、真逆の状況です。また、神に献げる十分の一と同じ十分の一を、王もまた要求し、民から取り上げたその十分の一で、家臣に報酬を与えます。民の娘たちも徴用し、民の所有するオリーブ畑の最良のものを没収するような横暴を働くことも告げられます。このような警告を読むと、士師記の最後の言葉に対して、ツッコミを入れたくもなりますね。「王がいなかったので、人々は好き勝手にしていたと言うけれど、実際には王自体が好き勝手にしているではないか」、と。

 詩編21篇の描く王制は、理想的なものです。20篇も同様です。20篇では、8節に「あるものは戦車を、ある者は馬を誇る。しかし私たちは我らの神、主の名を誇る」とあり、主に信頼する理想的な王の姿を描いています。こうした記述は、申命記17章14-20節に描かれる、理想的な王の姿と重なります。この箇所では、王を求めるようになる民の声(14節:参照サムエル上8:5,19-20)に対する応答として、王が軍備増強することを戒め(戦車と馬)、エジプトとの同盟を牽制し、(おそらくは外国からの)妻を多くめとって心を惑わせること(政略結婚)、また富の独占(重税:軍備増強や政略結婚、王宮など建築事業の資金調達のため?)を牽制します(16-17節)。この辺りの記述は、列王記上11章1-10節にあるソロモンの背信の記述と重なりますね。申命記17章の17-20節は、さらに進んで、王が律法の写しを常に傍に置いて、そこに記されている神の御心を学び、実行することを命じています。王とその子孫の繁栄は、この主に対する信頼と律法の実行によることが強調されます。この視点は、やはり王の詩編にも一貫していると思います。

 裏を返せば、王が主に信頼しない場合、律法に描かれる神の御心に反逆する場合には、繁栄の約束は当てはまらない、ということになります。

権力に対する健全な批判

 王制を肯定的に描く王の詩編と、王制を批判するサムエル記上8章の視点は、一見すると矛盾対立するよう見えるかもしれませんが、王の詩編が「主に信頼する王」を描いていることを考慮すれば、両者を対立する視点のように捉える必要はそれほど大きくないとも言えますね。

 同様の視点は、ローマの信徒への手紙13章1-7節にも描かれています。この箇所では、「上に立つ権力に従う」ように命じていますが、これは、「上に立つ権力」が、「神によって立てられた」のは、「あなたがたに善を行わせるために、神に仕える者」として立てられたからであると説明されます。つまり、この「上に立つ権力」が神の御心に背いて、自ら悪を行い、また神を信じる者たちを迫害するようになった場合には、その権力に従うそもそもの前提が崩れるということになります。

 私たちも、こうした健全な批判の視点を養う必要がありますね。

宗教法人日本ホーリネス教団中山教会・ 〒273-0024 千葉県船橋市二子町604-1・ 牧師:河野克也 Katsuya Kawano