nakayama-holinessのブログ

日本ホーリネス教団中山キリスト教会の公式ブログです。

2021年3月28日 礼拝週報

本日の週報をお届けします

 今週は受難週であり、その最初の日である本日は「棕櫚の主日」(Palm Sunday)と呼ばれ、主イエスがロバの子に乗ってエルサレムに入城した出来事を記念する特別な主日です。

 今週の金曜は、主イエスが十字架につけられたことを覚える聖金曜日(Good Friday)であり、その前夜が最後の晩餐の行われた日ということになります。主の受難を覚えつつ、特別な思いでこの一週間を過ごしましょう。

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2021年3月28日 礼拝週報

棕櫚の主日

 ヨハネ福音書12章13節に、群衆が「なつめやしの枝を持って迎えに出た」と記されていますが、これは「仮庵祭」という秋の収穫祭を起源に持つ巡礼祭の習慣によるもので、レビ記23章33-43節によれば、祭りの「最初の日に、飾りにする木の実、なつめやしの葉、茂った枝と川沿いのポプラの枝を取り揃えて、七日間、あなたがたの神、主の前に喜び祝いなさい」(40節)と命じられています。この祭りは、その期間中、仮小屋で過ごすことを通して、神が「イスラエルの人々をエジプトの地から導き出したとき、仮小屋に住まわせたことを」記念し、この神の救済の出来事が代々語り継がれていくように定められたのだと説明されます(42-43節)。

 

ホーリネスオンラインセミナー

 コロナ下で教会の通常の活動ができなくなったことで、有志教会で協力して、第3週の午後に「コロナ時代のキリスト者生涯学習」と題してオンラインセミナーを続けてきましたが、セミナーの中でご案内の通り、4月から「ホーリネスオンラインセミナー」と改名して、この学びを継続していくこととなりました。週報でもお知らせしましたが、ブログではチラシを掲載いたしますので、ぜひご参加ください。

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2021年度ホーリネスオンラインセミナー

 

2021年3月25日 祈祷会の学び(箴言2章)

祈祷会のライブ配信動画を提供します

 本日の中山教会の聖書通読箇所は、箴言2章です。150篇の長い詩編を読み終わり、昨日から箴言に入りました。

 詩編は一つ一つが独立した詩のため、各詩編に付されている番号は「章」ではなく「篇」と呼びますが、箴言はその他の文書と同じく、初めから終わりまで順を追って進展する形ですので、箴言の場合は1章から31章まで、前後関係を意識しながら読むことが重要です(付されている章節の番号は、便宜上、後の時代に付けられるようになったもので、元々あったものではありません)。

 箴言の学びを進めるにあたり、全体の構成を提示しておくことが便利だと思いますので、後ほど、メノナイト派の旧約学者ジョン・W・ミラー教授による注解書を手がかりに、その辺りを解説しようと思います(John W. Miller, Proverbs, Believers Church Bible Commentary [Scottdale, PA: Herald Press, 2004])。詩編の方も、あと105,106篇と145篇の解説が残っていますが、それよりは先に箴言の構成を解説するつもりです。

 とは言え、まずは本日の祈祷会の学びのライブ配信動画を提供いたします。


2021年3月25日 祈祷会の学び

祈祷会の学び:スピンオフ?(詩編98篇)

先送りしていた詩編98篇の学びです

 1月28日にライブ配信した祈祷会の学びの聖書箇所である詩編98篇について、遅ればせながら、短く学びを提供いたします。

詩編98篇:王なるヤハウェへの新しい歌

 この詩編は、神ヤハウェを全地の王として讃え、その御業に対する感謝の歌を歌うことを呼びかける詩編です。ヤハウェを全地の王として讃える詩編は、冒頭で「ヤハウェは王となられた」と宣言する93篇、97篇、99篇が代表的ですが、96篇10節でも同じ宣言があり、47篇3節ではヤハウェを「全地に君臨する王」と讃えます。本98篇も、6節で神を「王なるヤハウェ」と呼んでいます。

 神が全地の王であるとの信仰には、いくつかの側面があります。一つは、王の権能として、弱者を守り、正義を行うということであり、これは王による正しい裁きとして表明されます。96:10でも98:9でも公平な裁きが希求され、97篇では全体として、悪を行う者に対する厳しい裁きが根底にあります。

 もう一つの側面は、全地の王としての普遍的な支配です。つまり、この神はただイスラエルという一つの民族の神であるだけでなく、全世界を公平に裁き、正義をもって統治する王だという信仰です。これは、世界史的な出来事の背後にある神の導きに対する信頼また賛美の表明です。

奇しき業:捕囚からの帰還

 神ヤハウェによる世界の支配は、イスラエルの歴史において、エジプトの奴隷の家からの救出とバビロン捕囚からの帰還という、二つの大きな出来事によって経験されました。お世話になっている月本先生の『詩篇の思想と信仰』では、1節の「奇しき業」(聖書協会共同訳:月本訳では「不思議なみ業」)と訳されるヘブライ語「ニフラオート」について、以下のように説明します(第4巻:352-53頁)〔以下、引用〕:

 

ニフラオート…は、元来、歴史におけるイスラエルの救済体験を表す述語の一つであった。出エジプトの出来事がその典型をなす(詩77:15; 78:12; 106:7; ネヘ9:17他)。…歴史上の出来事を具体的に明示しない用例も少なくないが、その場合、多くは比類なきヤハウェの権能を讃えるか、歴史におけるヤハウェの「審き」を称揚する文脈にあらわれる(出15:11; 詩9:2; 75:2他)。後期の文書になると、ニフラオートの用法は多様化し、個人の救済体験を表し(詩26:7; 40:6他)、自然現象や律法までもがそう呼ばれるようになる(ヨブ5:9; 9:10; 詩119:18他)。

 

 本98篇では、捕囚からの帰還がこの言葉で表現されますが、それは、98:3がイザヤ52:10の引用であり、そこで表明されるように、捕囚からの帰還を第二の出エジプトとする理解によると説明されます(同書:351、353頁)。ここで強調すべき点として、月本先生は、この「捕囚からの解放〔が〕あくまでもイスラエルとの契約に真実であろうとする神ヤハウェの業であって、『悔い改め』や自己努力といった民の側の姿勢や行動とは無関係であった、との理解」を挙げます(353頁)。

 確かにイザヤ書を見ると、捕囚からの帰還について、かなりきつい表現でこのことが表現されています。イザヤ48:8-11では、イスラエルが「必ず裏切ることを/母の胎にいる時から背くものと呼ばれていたことを私は知っていた」と、イスラエルの本来的な罪深さが強調され、それに対比させるように、神による憐れみと救いが、神「自らの名のため、…自らの誉のため」であること、つまり神の名が汚されないためであることが語られます。神の民であるイスラエルの側の「悔い改め」でも「自己努力」でもない、というのは皮肉な表現ですね。

 この思想は、エゼキエル36章ではより鮮明に描かれます。21節では、イスラエルが捕囚の地、「諸国民の間で汚したわが聖なる名を惜しんだ」とあり、22-23節では、捕囚からの帰還という救いの業が、「あなた方が諸国民の中で汚した私の聖なる名のため」、またそれが「私の大いなる名を聖なるものとする」ことであると説明されます。強烈ですね。

 詩編98篇のニフラオートは、決してエゼキエル書のような皮肉な仕方ではなく、むしろよりストレートに神の救いの業を、神の契約に対する真実また自発的な憐れみとして強調していると言えるでしょう。

全地への呼びかけ

 98篇は、神ヤハウェによるイスラエルの捕囚からの帰還が、全世界の見守る中で行われたことを強調し、全地がその救いを目撃したことによって、翻ってこの神の憐れみを求めるようになることを呼びかけます。4節以降の賛美の呼びかけは、このヤハウェによる公平な裁きによる救いが、神の作られた世界の隅々にまで及ぶことを、ともに待ち望むようにとの招きでもあります。

 そのように神の救いを全世界的、普遍的なものとして理解するなら、世界で起こっている様々な問題、人権侵害や紛争などについて、私たちは無関心でいられないはずです。思想や心情、宗教の違い、また人種の違いなどによる差別やヘイトに対しても、また他国の人々を劣悪な環境で働かせることによって先進国に豊かな生活をもたらすグローバルな経済的不正義も、私たちの信仰にとって本質的に重要な事柄となるはずです。私たちは、神ヤハウェを全地の王として賛美し、その公正な支配を希求するように招かれているのです。

 

2021年3月21日 礼拝動画(編集済みバージョン)

ライブ配信動画の差し替え版です

 今朝の礼拝では、機材の接続不良のせいか、音声と画像が途中で何度も途切れてしまい、ご迷惑をおかけしました。ビデオカメラでSDカードに録画した動画を編集しましたので、差し替え版としてYouTubeにアップロードいたしました。ブログの方でも提供いたします。

 なお、ライブ配信動画の方は、お見苦しいので削除いたします。ご了承ください。

 


2021年3月21日礼拝

2021年3月21日 礼拝週報

3月21日(レント第五主日)の礼拝週報です

 本日の礼拝週報を提供いたします。レントの期間も終わりが近づいてきました。来週3月28日はいよいよ受難週となります。日曜は主イエスがロバの子に乗ってエルサレムに入城したことを記念する棕櫚の主日Palm Sunday)、金曜は主イエスが十字架につけられた聖金曜日(Good Friday)です。そして、その翌週4月4日の日曜日が復活日(Easter Sunday)です。

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2021年3月21日 礼拝週報

祈祷会の学び:スピンオフ?

詩編63篇&70篇

 昨年の12月24日と31日は、それぞれ祈祷会の学びのオンライン配信をお休みしました(24日はイヴ礼拝をライブ配信したため、31日は大晦日)。それで、年が明けた1月7日の祈祷会の学びの際に、そのうちどこかでブログの記事を書くという宿題を自分に課したのですが、その機会がないまま時間ばかり過ぎて行き、ついに詩編がまもなく終わるというタイミングになってしまいました。そこで、遅ればせながら63篇と70篇の学びを提供しようと思います。

63篇:命にまさる慈しみ

個人的な思い出

 詩編63篇は個人的にとても思い入れのある詩編です。(といっても、あらためて読んでみて、気づいたというのが本当のところですが…。)4節から5節にかけて(標題を節に数えない口語訳では3-4節)、「あなたの慈しみは命にもまさる恵み。/私の唇はあなたをほめたたえます。/命のある限り、あなたをたたえ/その名によって、手を高く上げよう」と歌われていますが、この部分はそのまま(今や懐メロの)ゴスペルの歌詞になっています。

 実は子供時代に愛媛県で牧師の息子として過ごしていたときに、ネイサン・F・ブルックスという宣教師/ゴスペルシンガーがおられて、教会で英会話/英語の賛美を教えてくださっていました。1975年頃の話です。確か、四国教区の集会だったでしょうか、ゴスペルコンサートを開いて、エレキギターをアンプに繋いで賛美していたことを記憶しています。アコースティックギター1本で弾き語りをするカセットアルバムを2本作って販売しておられたのでしょう。私の家にもそのテープがあって、子供時代から繰り返し(擦り切れるまで)聴き込んで、ギターもブルックス先生の弾き方を耳コピーで練習していました。(最近、思い立ってそのカセットテープをパソコンに取り込んで、頻繁に聞いています。)

 この詩編63篇を歌ったゴスペルはその中の一曲で、ネットで調べたところヒュー・ミッチェルという人の作のようです(Thy Loving Kindness is Better Than Life (Hugh Mitchell: 1956/84)。ここでは、ブルックス先生バージョンでご紹介します。

「あなたのいつくしみは」

あなたのいつくしみは いのちにもまさるゆえ

わがくちびるはあなたをほめたたえる

手を上げて御名を呼びまつる

私は生きながらえる間あなたをほめ

わがくちびるはあなたをほめたたえる

手を上げて御名を呼びまつる

Thy lovingkindness is better than life

Thy lovingkindness is better than life

My lips shall praise thee, thus still I bless thee

I will lift up my hands to thy name

     I will lift up my hands to thy name

     I will lift up my hands to thy name

My lips shall praise thee, thus still I bless thee

I will lift up my hands to thy name.

 

63篇の特徴

 さて、命にもまさる主のいつくしみを歌ったこのゴスペルは(古い世代の人たちには)有名ですが、63篇のこの部分の表現は、詩編全体の中でも特徴的な表現のようです。月本昭男先生の『詩編の思想と信仰』によれば、この詩人は「あなたの慈愛は生命にまさる」(4節:月本訳)という表現で、「もちろん、それによって神の『慈愛』と人間の『生命』の価値を比較して見せたのではない。彼は、人間にとってかけがえのない生命も、神の慈愛のなかに生かされてはじめて躍動的でありうることを確信し、それをこのような表現で告白したのである」と説明します(第3巻:173頁)。ここで使われるへセドというヘブライ語は、「元来、…共同体内倫理の基礎として、生命の共感に基づく弱者保護と相互扶助の義務を含む社会関係を表す語である」と説明されます(同頁:TWAT[=旧約聖書用語辞典]より)。それが預言者ホセアによって「神ヤハウェイスラエルの民との関係に転用」され、「その後、とくに申命記および申命記史書において、イスラエルを選び、この民との契約を守る神ヤハウェの意思を表すようにな」り、捕囚から帰還して神殿を再建した後の第二神殿時代になると、「それがさらに、信仰者の『魂』を守り、これを生かしめる神ヤハウェの意思とそのはたらきを表す述語として明確化された」とのことです(同173-74頁)。月本先生は、ここから天地創造の記事に視野を広げ、神の慈愛と信仰者個人の生命の関係を以下のように説明します:「人間は神からニシュマト・ハイイーム『生命の息吹』を拭き入れられてネフェシュ・ハイヤー『生きるもの(=生ける魂)』となったと創世記2章7節は伝えるが、そのような人間のハイイーム『生命』を支え、これを豊かにするはたらきが神の『慈愛』にほかならない」(同174頁)。この詩編の詩人が告白した神への信頼は、この表現によってこそ的確に表現されたということなのですね。

 詩編63編は、冒頭で神に対して呼びかけて、「私はあなたを探し求めます。/魂はあなたに渇き/体はあなたを慕います/水の無い乾ききった荒れ果てた地で」と語ることから、信仰者を涸れ川に水を求めて喘ぐ鹿の様子にたとえた詩編42篇と重ね合わせて理解されることも多いようです。しかし、63篇は42篇とは違って、4節5節を転換点にそれ以降の部分では神への感謝を重ねていますので、やはり本質的には「信頼の詩編」ということになるでしょう。12節にある王への唐突な言及から、もともと個人の詩編だったものが、王国の滅亡を経て、ダビデ王朝の再興を願う詩編に拡大された可能性も指摘されます(月本:同書171-72頁)。詩編が長い時代を経て伝承・編集・編纂されたというダイナミックな性質を考えると、そうした変遷は信仰共同体の礼拝という文脈では自然なことだと思います。その場合、神の個人に対する救済意思を表す「述語」となった慈愛(へセド:慈しみ)が、歴史的状況の変化の中で再び、イスラエルの民との契約を守る神の慈愛として共同体の次元を回復した、ということになりますね。

 

70篇:神に助けを求める祈り

 70篇は明確に困難のただ中で助け/救出を求める祈りの詩編です。この詩編は40篇14-18節とほとんど一字一句重なっていますが、構成が簡潔であることなどから、70篇の方が先にあって、40篇は70篇を最後の部分に取り込んだと考えるのが自然なようです(月本:同書271頁)。月本先生の分析を図示すれば、70篇の構成は以下の通りです(同頁):

 A 枠1:神に対する救いの介入の懇願(2節)

  B 願い1:祈り手の災いを喜ぶ者の恥と撤退(3-4節)

  B' 願い2:神に救いを求める者の喜びと賛美(5節)

 A' 枠2:神に対する救いの介入の懇願(6節)

 

苦しむ貧しい者の祈り

 詩編70篇の特徴は、詩人が最後に自分を指して言う「私は苦しむ者、貧しい者」という表現です。詩人は、苦境に追いやられた自分の救いだけでなく、同じような境遇の者との連帯を意識して、5節では「あなたを尋ね求める人すべて」、「あなたの救いを愛する人」とともに神を賛美する情景を描いていますが、月本先生はこの点にこの詩編の特徴を見ます。「神ヤハウェは社会的弱者の側に立つという信仰は捕囚期〔紀元前6世紀〕をはるかに遡る。すでに預言者アモス〔紀元前8世紀〕が社会的弱者の抑圧を厳しく糾弾したが(アモス2:6; 5:10-12; 8:4他)、その背後にはエジプトにおいて奴隷として苦しんだ民の解放を原点とするヤハウェ信仰が横たわる。…そうしたイスラエルの信仰が、一方で、預言者たちの社会批判を基礎づけ、他方で、苦難にあえぐ信仰者の大胆な嘆きと訴えの祈りに継承されたのである」(月本:同書275頁)。

 

補足的宣伝:『シャロームジャスティス』

 この詩編に表現されている「苦しむ者、貧しい者」を救う神への信頼が、旧約聖書全体を貫くことについては、現在翻訳に関わっているペリー・ヨーダー著『シャロームジャスティス』において丁寧に説明されています。神が私たち人間に望んでおられることは、神の与えてくださった命が十分に祝福されている幸いな状態であり、それが「シャローム」というヘブライ語で表現されます。通常は「平和」ないし「平安」と訳されることが多いですが、シャローム自体はもっと幅広い意味の言葉です。特にペリー・ヨーダーが強調するのは、このシャロームの実現には、正義(ジャスティス)の実現が不可欠だという点です。特定の人が富と権力を独占し、それ以外の人を抑圧するような不正義は、神が望んでいるシャロームとは真逆であり、その不正義が克服されること抜きには、真のシャロームはない、ということです。この不正義の克服については、社会全体が不正義を温存する構造になっているときに、その現状を変えようとしないこと、つまり現状維持は、その不正義を承認することであり、もっと言えば、その不正義の現状維持に加担することになります。なかなか厳しい指摘ですが、旧約聖書における預言者の厳しい批判の言葉や、新約聖書における主イエスの厳しい批判の言葉を考えると、確かにその視点が重要だとわかります。

 新型コロナで経済的に困窮する人が増えることで、私たちの生きている社会自体の不正義がより一層際立って見えるようになりましたが、私たちはこの不正義を変えようとしているでしょうか? それとも、現状維持に加担しているでしょうか? 作業を進めながら、いろいろと考えさせられています。今年の夏頃には出版に漕ぎ着けたいと思っていますので、どうぞご期待ください。

 

(あと予告して記事にしていないのは、98篇と105篇でしたっけ? 最近流行りの政治家や官僚のように、堂々と「記憶にございません」と言えたら楽なのでしょうが、クリスチャンはそういうわけにはいきませんので、いずれ、そのうち、できれば、忘れた頃に、、、?)

2021年3月18日 祈祷会の学び(詩編145篇)

3月18日の祈祷会の学びの動画です

 先ほど終了した祈祷会の学びのライブ配信動画を、ブログでも提供いたします。

 長く続いた詩編ですが、今週が最後になります。来週は箴言2章の予定です。

 


2021年3月18日 祈祷会の学び

 

ホーリネス教団の年会

 昨日と本日の2日間、日本ホーリネス教団の年会がオンラインで開催されています。ちょうど今朝の祈祷会の時間帯は、追悼記念会が行われていて、この1年間に召されたホーリネスの牧師先生方を覚える時をもっています。ただ、祈祷会の学びをお休みすることを週報に明記していなかったことと、追悼集会がYouTubeで配信されていることで、後から視聴(参加)できることもあり、祈祷会の学びのライブ配信を、いつも通り行うことといたしました。

宗教法人日本ホーリネス教団中山教会・ 〒273-0024 千葉県船橋市二子町604-1・ 牧師:河野克也 Katsuya Kawano