nakayama-holinessのブログ

日本ホーリネス教団中山キリスト教会の公式ブログです。

祈祷会の学び:スピンオフ?

詩編63篇&70篇

 昨年の12月24日と31日は、それぞれ祈祷会の学びのオンライン配信をお休みしました(24日はイヴ礼拝をライブ配信したため、31日は大晦日)。それで、年が明けた1月7日の祈祷会の学びの際に、そのうちどこかでブログの記事を書くという宿題を自分に課したのですが、その機会がないまま時間ばかり過ぎて行き、ついに詩編がまもなく終わるというタイミングになってしまいました。そこで、遅ればせながら63篇と70篇の学びを提供しようと思います。

63篇:命にまさる慈しみ

個人的な思い出

 詩編63篇は個人的にとても思い入れのある詩編です。(といっても、あらためて読んでみて、気づいたというのが本当のところですが…。)4節から5節にかけて(標題を節に数えない口語訳では3-4節)、「あなたの慈しみは命にもまさる恵み。/私の唇はあなたをほめたたえます。/命のある限り、あなたをたたえ/その名によって、手を高く上げよう」と歌われていますが、この部分はそのまま(今や懐メロの)ゴスペルの歌詞になっています。

 実は子供時代に愛媛県で牧師の息子として過ごしていたときに、ネイサン・F・ブルックスという宣教師/ゴスペルシンガーがおられて、教会で英会話/英語の賛美を教えてくださっていました。1975年頃の話です。確か、四国教区の集会だったでしょうか、ゴスペルコンサートを開いて、エレキギターをアンプに繋いで賛美していたことを記憶しています。アコースティックギター1本で弾き語りをするカセットアルバムを2本作って販売しておられたのでしょう。私の家にもそのテープがあって、子供時代から繰り返し(擦り切れるまで)聴き込んで、ギターもブルックス先生の弾き方を耳コピーで練習していました。(最近、思い立ってそのカセットテープをパソコンに取り込んで、頻繁に聞いています。)

 この詩編63篇を歌ったゴスペルはその中の一曲で、ネットで調べたところヒュー・ミッチェルという人の作のようです(Thy Loving Kindness is Better Than Life (Hugh Mitchell: 1956/84)。ここでは、ブルックス先生バージョンでご紹介します。

「あなたのいつくしみは」

あなたのいつくしみは いのちにもまさるゆえ

わがくちびるはあなたをほめたたえる

手を上げて御名を呼びまつる

私は生きながらえる間あなたをほめ

わがくちびるはあなたをほめたたえる

手を上げて御名を呼びまつる

Thy lovingkindness is better than life

Thy lovingkindness is better than life

My lips shall praise thee, thus still I bless thee

I will lift up my hands to thy name

     I will lift up my hands to thy name

     I will lift up my hands to thy name

My lips shall praise thee, thus still I bless thee

I will lift up my hands to thy name.

 

63篇の特徴

 さて、命にもまさる主のいつくしみを歌ったこのゴスペルは(古い世代の人たちには)有名ですが、63篇のこの部分の表現は、詩編全体の中でも特徴的な表現のようです。月本昭男先生の『詩編の思想と信仰』によれば、この詩人は「あなたの慈愛は生命にまさる」(4節:月本訳)という表現で、「もちろん、それによって神の『慈愛』と人間の『生命』の価値を比較して見せたのではない。彼は、人間にとってかけがえのない生命も、神の慈愛のなかに生かされてはじめて躍動的でありうることを確信し、それをこのような表現で告白したのである」と説明します(第3巻:173頁)。ここで使われるへセドというヘブライ語は、「元来、…共同体内倫理の基礎として、生命の共感に基づく弱者保護と相互扶助の義務を含む社会関係を表す語である」と説明されます(同頁:TWAT[=旧約聖書用語辞典]より)。それが預言者ホセアによって「神ヤハウェイスラエルの民との関係に転用」され、「その後、とくに申命記および申命記史書において、イスラエルを選び、この民との契約を守る神ヤハウェの意思を表すようにな」り、捕囚から帰還して神殿を再建した後の第二神殿時代になると、「それがさらに、信仰者の『魂』を守り、これを生かしめる神ヤハウェの意思とそのはたらきを表す述語として明確化された」とのことです(同173-74頁)。月本先生は、ここから天地創造の記事に視野を広げ、神の慈愛と信仰者個人の生命の関係を以下のように説明します:「人間は神からニシュマト・ハイイーム『生命の息吹』を拭き入れられてネフェシュ・ハイヤー『生きるもの(=生ける魂)』となったと創世記2章7節は伝えるが、そのような人間のハイイーム『生命』を支え、これを豊かにするはたらきが神の『慈愛』にほかならない」(同174頁)。この詩編の詩人が告白した神への信頼は、この表現によってこそ的確に表現されたということなのですね。

 詩編63編は、冒頭で神に対して呼びかけて、「私はあなたを探し求めます。/魂はあなたに渇き/体はあなたを慕います/水の無い乾ききった荒れ果てた地で」と語ることから、信仰者を涸れ川に水を求めて喘ぐ鹿の様子にたとえた詩編42篇と重ね合わせて理解されることも多いようです。しかし、63篇は42篇とは違って、4節5節を転換点にそれ以降の部分では神への感謝を重ねていますので、やはり本質的には「信頼の詩編」ということになるでしょう。12節にある王への唐突な言及から、もともと個人の詩編だったものが、王国の滅亡を経て、ダビデ王朝の再興を願う詩編に拡大された可能性も指摘されます(月本:同書171-72頁)。詩編が長い時代を経て伝承・編集・編纂されたというダイナミックな性質を考えると、そうした変遷は信仰共同体の礼拝という文脈では自然なことだと思います。その場合、神の個人に対する救済意思を表す「述語」となった慈愛(へセド:慈しみ)が、歴史的状況の変化の中で再び、イスラエルの民との契約を守る神の慈愛として共同体の次元を回復した、ということになりますね。

 

70篇:神に助けを求める祈り

 70篇は明確に困難のただ中で助け/救出を求める祈りの詩編です。この詩編は40篇14-18節とほとんど一字一句重なっていますが、構成が簡潔であることなどから、70篇の方が先にあって、40篇は70篇を最後の部分に取り込んだと考えるのが自然なようです(月本:同書271頁)。月本先生の分析を図示すれば、70篇の構成は以下の通りです(同頁):

 A 枠1:神に対する救いの介入の懇願(2節)

  B 願い1:祈り手の災いを喜ぶ者の恥と撤退(3-4節)

  B' 願い2:神に救いを求める者の喜びと賛美(5節)

 A' 枠2:神に対する救いの介入の懇願(6節)

 

苦しむ貧しい者の祈り

 詩編70篇の特徴は、詩人が最後に自分を指して言う「私は苦しむ者、貧しい者」という表現です。詩人は、苦境に追いやられた自分の救いだけでなく、同じような境遇の者との連帯を意識して、5節では「あなたを尋ね求める人すべて」、「あなたの救いを愛する人」とともに神を賛美する情景を描いていますが、月本先生はこの点にこの詩編の特徴を見ます。「神ヤハウェは社会的弱者の側に立つという信仰は捕囚期〔紀元前6世紀〕をはるかに遡る。すでに預言者アモス〔紀元前8世紀〕が社会的弱者の抑圧を厳しく糾弾したが(アモス2:6; 5:10-12; 8:4他)、その背後にはエジプトにおいて奴隷として苦しんだ民の解放を原点とするヤハウェ信仰が横たわる。…そうしたイスラエルの信仰が、一方で、預言者たちの社会批判を基礎づけ、他方で、苦難にあえぐ信仰者の大胆な嘆きと訴えの祈りに継承されたのである」(月本:同書275頁)。

 

補足的宣伝:『シャロームジャスティス』

 この詩編に表現されている「苦しむ者、貧しい者」を救う神への信頼が、旧約聖書全体を貫くことについては、現在翻訳に関わっているペリー・ヨーダー著『シャロームジャスティス』において丁寧に説明されています。神が私たち人間に望んでおられることは、神の与えてくださった命が十分に祝福されている幸いな状態であり、それが「シャローム」というヘブライ語で表現されます。通常は「平和」ないし「平安」と訳されることが多いですが、シャローム自体はもっと幅広い意味の言葉です。特にペリー・ヨーダーが強調するのは、このシャロームの実現には、正義(ジャスティス)の実現が不可欠だという点です。特定の人が富と権力を独占し、それ以外の人を抑圧するような不正義は、神が望んでいるシャロームとは真逆であり、その不正義が克服されること抜きには、真のシャロームはない、ということです。この不正義の克服については、社会全体が不正義を温存する構造になっているときに、その現状を変えようとしないこと、つまり現状維持は、その不正義を承認することであり、もっと言えば、その不正義の現状維持に加担することになります。なかなか厳しい指摘ですが、旧約聖書における預言者の厳しい批判の言葉や、新約聖書における主イエスの厳しい批判の言葉を考えると、確かにその視点が重要だとわかります。

 新型コロナで経済的に困窮する人が増えることで、私たちの生きている社会自体の不正義がより一層際立って見えるようになりましたが、私たちはこの不正義を変えようとしているでしょうか? それとも、現状維持に加担しているでしょうか? 作業を進めながら、いろいろと考えさせられています。今年の夏頃には出版に漕ぎ着けたいと思っていますので、どうぞご期待ください。

 

(あと予告して記事にしていないのは、98篇と105篇でしたっけ? 最近流行りの政治家や官僚のように、堂々と「記憶にございません」と言えたら楽なのでしょうが、クリスチャンはそういうわけにはいきませんので、いずれ、そのうち、できれば、忘れた頃に、、、?)

宗教法人日本ホーリネス教団中山教会・ 〒273-0024 千葉県船橋市二子町604-1・ 牧師:河野克也 Katsuya Kawano