nakayama-holinessのブログ

日本ホーリネス教団中山キリスト教会の公式ブログです。

2020年9月17日 祈祷会の学び:動画

先ほどライブ配信した動画を提供します

 2020年9月17日の中山教会の聖書通読箇所は、ヨブ記7章ですが、本日は1-2章の部分を中心に、ヨブ記を読むにあたって意識しておいたら良いことなどを考えてみます。ヨブ記は42章ありますので、これから10月22日までの6回にわたって読み進めることになります。計算上、ちょうど第6回目が42章なので、気持ちよく終われるでしょうか?

 


2020年9月17日 祈祷会の学び

 

使用聖書について

 中山教会は、ホーリネス教団の公用聖書が聖書協会共同訳に決まったことを受けて、礼拝の際の聖書朗読ではそちらを使用していますが、岩波書店から出版された、並木浩一訳のヨブ記旧約聖書XIII:岩波書店、2004年)も、参考にしたいと思います。この岩波版の聖書翻訳シリーズは、旧約も新約も、注や解説、用語集が充実していて、とても勉強になります。残念ながら、最初の分冊版(旧約15巻、新約5巻)も、合本(旧約4巻、新約1巻)も、ネットで検索した限り、もう中古でしか手に入らないようです。一部、書店に新品のまま眠っていた在庫があったり、オンデマンドで注文できる合本もあるようですが、簡単に書店で手に入る状況ではなさそうです。というわけで、本は、あとで買おうと思っていても品切れなどで買えなくなることがあるので、できるだけ思い立った時に買いましょう(あまり参考にならないアドバイスですね)。

神を呪う/祝福する

 複数の訳を比較すると、いろいろ気づくことがあります。例えば、聖書協会共同訳でヨブ記1章5節を見ると、ヨブが子どもたちの誕生パーティーが一巡りすると(つまり、1年ごとに)、「もしかすると子どもたちは罪を犯し、神を呪ったかもしれない」と心配したヨブが、「朝早く起きて、彼らの数に相当する焼き尽くすいけにえを献げた」とあります。聖書協会共同訳の2018年に最初に出版された引照・注付きの版では、この「呪った」のところに小さくアルファベットの小文字の a が付いていて、上下2段組の上段の下にある引照・注のスペースを見ると、引照の終わりの区切り線の後に、a 直訳「祝福した」と書かれています。ただし、後から出た引照・注なしの「スタンダード版」では、この情報は出てきません。

 新改訳2017では、引照・注のスペースは、2段組の下段の下にまとめられています。ちなみに、ヨブ記1章5節には、片カッコの数字 2) が付いていますが、この数字は引照の印で、下の引照を見ると、「②ヨブ 二 5、9」とありますが(二は漢数字の2)、特に「呪う」と訳したヘブライ語原語の直訳が「祝福する」だとは書かれていません。新改訳2017では、本文上の異読や別訳などは、数字ではなく * で示します。わかりやすい例は、ローマ3章21節ですが、そこにある「イエス・キリストを信じることによって」に付けられた * を、下の引照・注のスペースで確認すると、*別訳「イエス・キリストとの真実によって」とあります。

 岩波版だと、ヨブ記1章5節の該当部分は、「ヨブは、もしかすると私の息子たちは罪を犯し、心の中で神を讃えたかもしれない、と思ったからである」と訳されています。この「讃えた」の「た」の右に(縦組みなので)、漢数字の12(一二)が印刷されていて、次のページの下にある説明がとても詳しく、勉強になります。引用します(漢数字の表記は、横組みに合わせてアラビア数字に置き換え、聖書の書名の略表記はわかりやすい程度に直します)。

 

12 原文通りに訳出。「讃えた」は、この動詞が「神を祝福する」という意味で使われる場合の一般的な訳語。諸訳は当該動詞の使用を、ヨブ記作者が神を冒瀆しないために工夫した婉曲表現であると理解して、これを「呪った」と訳している。確かにそのような婉曲表現の事例は存在する(列王記上21:10, 13; 詩編10:3)。しかしここでは、「神さま、大変けっこうなことです」と、神に対する満足感を懐くという意味で「神を祝福した」と解する方が宴の常連にはふさわしい。悪人も「讃え、ヤハウェを侮る」という(詩編10:3)。当該動詞は、「序曲」〔1-2章の「散文による枠物語 I 〕の鍵語の一つである。用例は他に、1:10, 11, 21; 2:5, 9。そのうち、1:10 および 1:21 での使用は両義的ではなく、「祝福する」という本来の意味で用いられている。ヨブ記作者は 1:5, 11; 2:5, 9 の4箇所において、「呪う」の婉曲表現として用いる習慣を前提にした上で、敢えて当該動詞に両義性を持たせている。*1

 

 というわけで、この「祝福する/呪う」は、今後の展開を理解する際に、重要な用語のようです。ヨブという人物がどのように描かれているか、神、そしてサタンがどのように描かれているか、ヨブ記の読者にはどの時点でどのような情報が開示されているか、ヨブはどの時点でどのような情報を得ているか、など、ヨブ記の文学的な特徴に注目しながら、読み進めたいと思います。

 

*1:並木浩一訳「ヨブ記」、『旧約聖書 XIII ヨブ記 箴言』、並木浩一・勝村弘也訳(岩波書店、2004年)、4頁

宗教法人日本ホーリネス教団中山教会・ 〒273-0024 千葉県船橋市二子町604-1・ 牧師:河野克也 Katsuya Kawano