nakayama-holinessのブログ

日本ホーリネス教団中山キリスト教会の公式ブログです。

2020年10月29日 祈祷会の学び

ライブ配信した祈祷会の学びの動画です

 本日の中山教会の聖書通読箇所は、詩編7篇です。


2020年10月29日 祈祷会の学び

 

詩編一般について

 詩篇は、具体的な状況を詳細に描くよりも、一段抽象化(一般化)することで、広く時代を超えて共有されるようになる、という特徴があるように思います。あまり微に入り細に入り状況が説明されると、自分の状況に当てはめにくくなるもので、ある程度抽象的、一般的な表現である方が、自分にとって意味あるものとして読みやすい、と考えられます。詩篇のいくつかは、もともとある個人の歌った詩が、長い年月をかけて共同体の礼拝祭儀で共有されるようになったと考えられますが、そのプロセスが大切なのだと思います。  今朝の詩編7篇は、標題がついていて、具体的な状況が示唆されていますし、他にもそうした標題付きの詩編はありますので、その場合は、そこで示されている状況(聖書の他の箇所にある記述)などを参考にするのも良いでしょう。

詩編7篇について

 詩編7篇では、義人が敵対者の悪の企てに直面して、神に救いを求める詩編ですが、詩人は自らの潔白を主張して、神の正しい裁きを救いとして求めています。自分は不正には手を染めていない。自分の手は血で汚れていない。だから、神が正しい裁きを行なって、相手の不当な攻撃から救い出して欲しい、という願いです。ここでのポイントの一つは、詩人が要求している裁きの内容です。詩人は、天から直接罰が下って、敵対者が撃退されることを願っているというよりも、敵対者が詩人に対して仕掛けた罠が彼自身の上に下るように、詩人を落とそうと掘った穴に彼自身が落ちるようにという、いわば「自業自得」型の結末を願っていることです。もちろん、山上の説教で、敵を愛し、迫害する者のために祈ることを教えられている私たちは、「自業自得」型であっても、復讐を匂わせるような表現を前にして落ち着かない気持ちになるでしょう。そこはやはり、新約の光で旧約を読むことを心がけたいと思います。

 もう一つは、この詩人は、自分個人の救いを願う中でも、個人を超えた次元での神の正義に期待を寄せていることです。神は全世界を正しく裁く方であり、全ての民を公平に裁く方であるとの信仰が根底にあって、そのいわば普遍的な神の正義に期待して、自らの潔白が証明され救われるように期待しているのです。つまり、この詩人は、その普遍的な神の正義に照らして潔白だと主張しているわけです。アモス書2章6-8節などで糾弾されているような、一方では「貧しい者を履物一足分の値で売」り「弱い者の頭を地の塵に踏みつけ」る一方で、涼しい顔で神を礼拝しているような偽善、「祭壇の脇で…質にとった衣の上に横たわり/科料として取り立てたぶどう酒を/神の家で飲んでいる」ような偽善とは、無関係ということですね。

神の前の潔白と苦難

 ここで思い起こすのは、神の前に自らの潔白を主張し続けたヨブの姿です。ヨブは、途方もない苦難に直面して、かつて自分を祝福していくれていた神が、突然、故なく自分を攻撃する側に回った、態度を豹変させたと感じ、その神に対して、身の潔白を主張し続けます。通常モードの「罪→罰/義→祝福」の図式に照らして、自分が経験している苦難は決して正当化できないという確信のもと、神に潔白を訴えたのです。ヨブにとって、今まさに自分が経験している苦難は、神が自分を切り捨てた、自分との信頼関係を遮断したと思われたのでしょう。神との関係における死として、苦難を理解したと言えるでしょう。

 ところが、38章からの神の語りかけは、神がヨブを決して切り捨てていない、変わらずヨブをその愛の配慮のうちに置いている、ということを示すものでした。ヨブと神の関係は、一瞬たりとも断絶していなかったのです。ヨブは、そのことに納得したことで、その苦しみから解放されたということだと思います。

 詩編7篇の場合は、悪を持った敵対者が想定されているので、ヨブ記の場合とは状況が異なりますが、それでも、苦難についての理解は、ヨブ記の方が数段深いものだと思います。詩編7篇や、詩編1篇に歌われているのは、先ほどの「罪→罰/義→祝福」という通常モードの苦難の理解ですが、ヨブ記が取り組んでいる苦難は、その通常モードでは処理できないもの、途方もなく理不尽に思える苦難です。そのような苦難を経験しないで一生を終えられたら幸いだと思いますが(実際、そのような人もいるでしょう)、しかし現実には、ヨブ記が描くような苦難を経験する人も多いと思います。人生に様々な深さの苦難が襲ってくるなか、聖書には、それに対応するように、通常モードの苦難向けの文書と、非日常モード(限界モード)の苦難向けの文書がある、という風に考えたら良いでしょうか。両方あることが、私たちにとって大切であり、神の憐れみ/配慮だと思います。

 

ヨブ記の創作性と神の言葉

 ヨブ記は、伝説の義人ヨブを題材に、後の時代の人が創作した壮大な戯曲のようなものだと説明されることが多いと思います。歴史的な核としては、通常の文体(散文)で書かれる枠物語が示すように、義人ヨブが、突然、理不尽な苦難に襲われたが、彼は不信仰に陥ることなく信仰を守り通して、神から回復され、前の祝福に勝る祝福を得た、というようなことでしょう。詩の文体(韻文)で描かれる対話の部分は、隅々まで作り込まれた優れた文学作品のようです。内容は、壮大なスケールで展開される深い哲学的な思索であり、これほどの創作を行える才能を持った作者は、神から豊かな賜物を与えられた人だと考えられます。単純に起こった出来事を記録するような歴史記述以上に、深い思索による創作には、神の真理を伝える力があると思います。詩編箴言が、一定程度、出来事の具体的な状況から距離をおいて抽象化され一般化されることで、時代を超えて幅広く共感を得るようになったのと同じように、歴史的な事実の次元を超えたところで、ヨブ記は神の真理を啓示していると考えることができるだろうと思います。

 この問題は、神学の領域では「啓示論」と呼ばれ、特に「聖書霊感説」を巡っては、聖書が神の言葉であるということを具体的にどのように定義したら良いのかについて(逐語霊感説/機械的霊感説か、十全霊感説か)、かなり面倒な議論が繰り返されてきました。いずれ、機会を見て、聖書の霊感について取り上げて見たいと思います。お楽しみに。

宗教法人日本ホーリネス教団中山教会・ 〒273-0024 千葉県船橋市二子町604-1・ 牧師:河野克也 Katsuya Kawano