nakayama-holinessのブログ

日本ホーリネス教団中山キリスト教会の公式ブログです。

学びの補足?

少しだけ説明を

 学びは動画を見ていただければ良いのですが、ちょっとだけ補足の文章を提供いたします。

エリヤとバアルの預言者たち

 事の発端は、イスラエルの王アハブ(前871-852年)が、シドンの王エトバアルの娘イゼベルを妻に迎えたことにあると考えられます(列王記上16:31)。エリヤが対決したバアルの預言者たちと(バアルのペアの?)女神アシェラの預言者たちは、そのイゼベルがイスラエルに導入したのでしょう。アハブの父オムリ王は、紀元前876年にサマリアを開拓して都市を建設しますが(16:24)、アハブはそのサマリアにバアル神殿を建て、大々的にバアル祭儀とアシェラ祭儀を導入したようです(16:32-33)。イスラエルへのバアル祭儀の導入は、イゼベルによる主の預言者の殺害を伴いましたので(18:4)、伝統的な主(ヤハウェ)に対する礼拝の廃止、つまり国を挙げてのバアル宗教への宗旨替えということでしょう。ですから、エリヤは、バアルの預言者との対決を通して、主なる神からバアルへといとも簡単に宗旨替えしたイスラエルの民に対して決断を迫ったわけです。

 ストーリー自体は有名ですし皆さん既に読んでおられるので、ここに再録する必要は無いかもしれません。要するに、それぞれが雄牛1頭をそれぞれの神に犠牲として捧げるのですが、祈って天から火を下して犠牲の雄牛を焼きつくせた方が本物の神だということです(18:20-24)。余裕のエリヤは、バアルの預言者たちに先行権を与えます。総勢850人の彼らは朝から晩まで祈り続け、挙げ句の果てには自分の体を傷つけるようにしてまで懇願しても、バアル神は答えません(25-29節)。これに対してエリヤは、火がつかないように犠牲も薪も水でビショビショにしたうえで、ひとこと祈ると、すぐに天から火が降って犠牲を焼き尽くします(30-38節)。これだけの一大スペクタクルを見せつけられて、民は「主こそ神です。主こそ神です」と答えます(39節)。この信仰告白の言葉が、はたしてどれだけ真実なものかは、のちに明らかとなるのですが、ともかく、ストーリーの展開上、ここで決着がついたわけです。

 ところが、エリヤはそれで満足せず、バアルとアシェラの預言者を一人残らず殺害します(40節)。エリヤ一人でできることではないでしょうから、先ほどの告白をしたイスラエルの民も総出でエリヤを手伝って殺害したと考えるのが自然です(ひょっとすると、イゼベルが主の預言者を殺した際にも、彼らはやはり手伝っていたのでしょうか?)。エリヤにしてみれば、かつてイゼベルに仲間の主の預言者たちを殺されたことに対する報復の意味もあったかもしれません。しかしそれ以上に、簡単に心変わりする民のために、彼らを惑わしかねないバアルの預言者とアシェラの預言者を、この機会に一掃してしまいたい、という思いだったのでしょう。しかし、それは主の御心だったのでしょうか?

 エリヤによるバアル/アシェラの預言者たちの殺害の報を受けて、イゼベルは復讐を誓います(19:1-2)。ここでイゼベルは、エリヤに対して「私が明日の今頃までに、あなたの命を、あの預言者たちの一人の命のようにしていなければ、神々が私を幾重にも罰してくださるように」という、自らに呪いを引き受ける誓いの形式をもって、復讐を誓います。要するに、「お前があの預言者たちを殺害したからには、お前もあの預言者の一人と同じ目に合わせてやる」ということです。報復が報復を呼ぶという、憎しみの連鎖、暴力の連鎖が読み取れます。人間がやることは、歴史を超えて変わらないものですね。

 エリヤはイゼベルを恐れて逃亡します。対決の場所であるカルメル山(イスラエル北部の地中海沿岸の山で、ガリラヤ湖の西50㎞ほど)から、ベエル・シェバ(イスラエル南部の砂漠地帯)を超えて、さらに南下して神の山ホレブ(シナイ半島南端のシナイ山)まで逃亡します。

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エリヤの逃避行『コンサイス聖書歴史地図』28頁

神の全き沈黙

 神の山ホレブで、エリヤは神と対話します。ただし、通常の方法とは異なります。洞窟にいるエリヤに神が語りかけると、エリヤは愚痴をこぼすように、「私は万軍の神、主に非常に熱心に仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を壊し、預言者たちを剣にかけて殺しました。ただ私だけが一人残ったのですが、彼らはこの私の命までも取ろうと狙っているのです」と言います(10節)。前半の預言者たちを殺した部分は、18章4節にあるイゼベルによる主の預言者殺害を指しているのでしょう。後半は、19章2節にあるバアルの預言者との対決後のイゼベルによるエリヤ殺害予告を指しています。とすると、かつて主の預言者を殺したイスラエルの民は、18章の預言者対決を受けて、一旦は「主こそ神です。主こそ神です」と信仰告白をしたにも関わらず、イゼベルがエリヤへの報復を誓うや否や、今度や手のひらを返したようにエリヤの命を狙うようになった、というわけです。恐ろしい話ですね。それでエリヤは、自分が孤軍奮闘してバアルの預言者たちを一掃したのに、なぜこんな目に合わなければならないのかと失望し、死を望むほどになっているのです。

 エリヤは自分一人が頑張って、自分の手でバアルの預言者を一掃したと考えているのかもしれませんが、実はそこに落とし穴があると思います。バアルの預言者の殺害について、神が命じたとは書いてないのです。

 ホレブでの神の表れは、通常の神顕現(エピファニー)とは異なり、風、地震、火といった神の栄光に伴って現れる自然現象の中に神がいないという描写になっています。その「火の後に、かすかにささやく声があった」と書かれています(19:12)。これは、「全くの沈黙の音がした」とも訳せるようです。神が沈黙している状況を、非常に際立たせて描いている、ということかもしれません。それは、預言者を殺害することで解決を図ったエリヤの思考が、まさに主の預言者を殺害したイゼベルの思考と同じであることを示しているのかもしれません。

 この辺りの解釈は、平和主義のメノナイト教会の旧約学者であるミラード・リンドの本に依拠しているのですが、含蓄に富む理解だと思います。暴力は解決を生み出さない、という確信です。私自身、メノナイト派の神学校に留学して学んだ経験から、聖書の神を徹底的に非暴力的に描くリンドの解釈から多くを学んでいます。

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ミラード・リンド『全き沈黙の音と殺戮国家』

この本は、アメリカの死刑制度に反対していますが、聖書に出てくる死刑に関する規定をどう解釈すべきかを、丁寧に論じた良書です(いつか日本語に訳すべきですね)。

 エリヤは預言者ですので、列王記の記述において、王の暴走を批判するいわばヒーローの役回りで描かれているように読めると思いますが、注意深く読んでみると、実際には宗教的熱心の暴走とも言える姿を露呈しており、必ずしも完全無欠のヒーローではないことがわかります。列王記の記述においては、上巻でのエリヤの描写も下巻でのエリシャの描写も含めて人間の弱さも描かれていることから、むしろ預言者ではなく、神こそが物語の本当の主人公だと考えるべきかもしれません。

 また続けて読み進めましょう。

宗教法人日本ホーリネス教団中山教会・ 〒273-0024 千葉県船橋市二子町604-1・ 牧師:河野克也 Katsuya Kawano