nakayama-holinessのブログ

日本ホーリネス教団中山キリスト教会の公式ブログです。

2021年6月3日 祈祷会の学び(イザヤ21章)

6月3日の祈祷会の学びの動画です

 先ほど終了した祈祷会の学びのライブ配信動画を、ブログでも提供いたします。


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イザヤ書21章(と、その前後)

 本日の中山教会の聖書通読箇所は、イザヤ書21章です。21章は、「諸国民への預言」の言葉がまとめられている13-23章の中で、バビロンへの裁きが語られる箇所です。聖書協会共同役の小見出しでは「バビロンが倒れる」となっていますが、聖書を読み慣れている方は、あるいは新約聖書の黙示録18章を思い起こすかもしれません。イザヤ21章で「倒れた。倒れた。バビロンが。その神々の偶像はすべて破壊され、地に落ちた」(9節)と書かれていて、黙示録18章では「倒れた。大バビロンが倒れた」(2節)と書かれています。黙示録は、古代ローマ帝国の全盛期の紀元90年代に、現在のトルコ西岸で書かれたと考えられていますので、ここでの「大バビロン」は、当然ながらローマ帝国を指す暗号です。黙示録は紀元前8世紀のイザヤとは時代も地域も違いますが、それでも、神が歴史の中に決定的な仕方で介入して、救いを成し遂げてくださる期待を描いている点では共通します。

 イザヤ21章とその前後は、紀元前8世紀の危機的な状況下にあって、神が決定的な仕方で歴史に介入してくださり、救いを完成してくださることが様々な仕方で告げられています。それは一方では、神に逆らう傲慢な諸民族への裁きという形で描かれます。19章1-15節にあるエジプトへの裁きはその分かりやすい例です。しかし、この裁きは、決して罰し、滅ぼして終わりというものではなく、むしろ、罰することを通して癒し、回復させるという意味で、救いでもあります。19:16-17は罰としての裁きがまだ前面に出ているようですが、18節以降では、エジプトが神に立ち帰る回心と回復が語られます。「主はエジプトを打たれ、打ちながらも癒される。彼らが主に立ち帰ると、主は彼らの願いを聞き入れ、癒される」との言葉は、神の裁きの本質をよく表していると思います。

 23節には、長年の宿敵として、覇権争いを繰り広げてきたアッシリアとエジプトが和解し、その間に「大路」つまり幹線道路が敷かれて、相互に行き来し、両者が「共に主に仕える」ようになることが描かれます。そして24節では、神の民イスラエルが、「エジプトとアッシリアに続き、地上のただ中において祝福される第三のものとなる」と告げられます。原文では単に「祝福の第三のものとなる」とあり、「祝福される」か「祝福する」か、どちらにも取れる表現になっています。続く25節では「万軍の主は祝福して言われる。『祝福あれ、私の民エジプト、私の手の業アッシリア、私のものである民イスラエル」とありますので、24節も「神に祝福される第三のもの」という意味なのでしょうが、それでも創世記12章1-3節では、神がアブラハムを選んだ目的として、「あなたは祝福の基となる。/あなたを祝福する人を私は祝福し/…地上のすべての氏族は/あなたによって祝福される」とありますので、ここでも単に神から祝福されるだけにとどまらず、その祝福をもってすべての民が祝福されるようになるという意味で、「祝福する第三のもの」という意味も込められていると言えるでしょう。

 

裁きの先の祝福

 13-23章の諸国民への預言で語られる裁きも、24章に描かれる「全地の裁き」も25:1-5に描かれる「横暴な国々への裁き」も、最終的には25:6-10に描かれる終末における救いへと向かう前段階ということになるでしょう。25:6-10では、終わりの日に主の山において祝宴が開かれることが告げられますが、それは神の民イスラエルだけではなく「すべての民のため」の祝宴(6節)です。さらにそれは、これまで互いに傷つけ合い、害し合い、殺しあっていた諸民族が、主の山にあって一同に集い、共に祝宴に与るという和解と平和のイメージです(イザヤ11:6-9参照)。その日には、「すべての民の顔を覆うベールと/すべての国民にかぶせられている顔覆いを破り/死を永遠に呑み込んでくださる」とあります。死が最終的に取り除かれるというこのヴィジョンは、「最後の敵として、死が無力にされる」ことを告げる1コリント15:26や、イザヤ25:8の表現を繰り返して、神が「目から涙をことごとく拭い去ってくださる」ことを告げる黙示録21:4にも描かれます。こうして見てみると、旧約聖書預言者が語る救いのヴィジョンと新約聖書の描く救いのヴィジョンが、見事に重なり合っていることがよく分かります。

宗教法人日本ホーリネス教団中山教会・ 〒273-0024 千葉県船橋市二子町604-1・ 牧師:河野克也 Katsuya Kawano