nakayama-holinessのブログ

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7月2日 祈祷会の学び

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ダビデによる神殿建設の準備

 本日の聖書通読箇所は歴代誌上28章ですが、祈祷会の学びとしてはダビデによる神殿建設の準備について記す22章から29章、つまり歴代誌上の最後までを扱います。(ちなみに、口語訳聖書では「歴代志」という表記のようですが、なぜ「志」なのでしょうね? 歴代の人々の志、つまり決意を記した、ということでしょうか?)

22章1節

 22章1節のダビデの言葉は、口語訳では「主なる神の家はこれである、イスラエルのための燔祭の祭壇はこれである」となっていて、2節の神殿建設のための準備とスムーズに繋がるように読めますが、新共同訳も聖書協会共同訳も、1節と2節の間には「神殿建築の準備」という小見出しが入っていて、明確に区切られています(これは、ヘブライ語聖書で1節の後にある区切記号を反映したものです)。ちなみに、訳もニュアンスが異なるので、新共同訳と聖書協会共同訳を比較してみましょう。

*新共同訳:神なる主の神殿はここにこそあるべきだ。イスラエルのための焼き尽くす献げ物をささげる祭壇は、ここにこそあるべきだ。

*聖書協会共同訳:これこそ神である主の神殿、これがイスラエルのために、焼き尽くすいけにえを献げる祭壇である。

 印象としては、新共同訳の表現だと、21章でダビデがエブス人オルナンの麦打ち場に祭壇を築いて犠牲をささげたことをもって、神が疫病を止めてくださったことを受けて、ダビデが「ここに神殿を建てよう」と決意表明したように読めます。聖書協会共同訳も、同様に小見出しで区切られることで、この発言が同じオルナンの麦打ち場の祭壇を指してる形になっていますが、決意表明と言うよりも、直接的にその祭壇を「神殿」と呼んでいるように読めます。ヘブライ語は、シンプルに「これこそ/これが」(ゼ・フー/ヴェ・ゼ)という表現ですので、訳としては口語訳、聖書協会共同訳の方が正確で、新共同訳はかなり踏み込んで敷衍している、ということになるでしょう。言わんとすることは合っているのですが、翻訳はなるべき節制的であるべきだろうと思います。

神殿建設の準備

 この後、聖書協会共同訳の小見出しを使ってアウトラインを列挙すると、以下のようになります。

神殿建築の準備(22:2-19)

レビ人の任務(23:1-32)

祭司の組織(24:1-19)

その他のレビ人(24:20-31)

詠唱者(25:1-31)

門衛と宝物庫の管理(26:1-28)

他のレビ人の任務(26:29-32)

軍隊の組織(27:1-24)

王室財産の管理(27:25-34)

ダビデによる神殿建築の宣言(28:1-21)

神殿建築のための寄贈(29:1-9)

ダビデの祈り(29:10-20)

ソロモン王の即位(29:21-30)

 特徴として、やはり捕囚から帰還したレビ人の視点を反映してか、役割分担のリストの中に、「他のレビ人」に関する記述が2箇所(23章の終わりと26章の終わり)あり、レビ人に関しては漏れなく書き残すぞ、というような信念が伺えます。

 また、全体の構造としては、22章でダビデがソロモンに告げた神殿建設の決意と指示が、28-29章でダビデイスラエルの会衆、家臣、ソロモンに対して告げたことと重なっており、ブックエンドのようにその間のものを挟み込む枠構造(囲い込み)となっています。この両方で、二つのことが強調されています。

 

ソロモンの若さ/未熟さ(22:5; 29:1)

 歴代誌はどうも、ダビデが神殿建設の準備の一切合切を行なったことの理由として、ソロモンの未熟さを強調しているようです。確かに、列王記上3章7節では、願い事をかなえることを約束する主に応えてソロモンがささげた祈りの中で、「私は未熟な若者」と告白していますが、それでも、列王記1-2章の王位継承物語では、ライバルであった兄アドニヤとアドニヤを支持したヨアブ(父ダビデの将軍)、ダビデを罵ったシムイに対して行なった残酷な仕打ちや、列王記上3章冒頭に記されているエジプトの王女との政略結婚などを見ると、とても「若くて経験がない」とは言えないでしょう。ちょっと言い訳っぽい気がします。やはり、歴代誌の視点では、ダビデは神殿祭儀全体を整えたパトロンとして、とても重要な人物であり、神殿建設においても、ダビデを全面に出したいのでしょうね。

 

ダビデの流血の責任(22:8; 28:3)

 歴史的には、神殿建設は明らかにソロモンの手柄ですが(列王記上5:15-6:38)、歴代誌の視点からは、ダビデが建てなかったということについて、なんらかの納得できる理由が必要だったと思われます。枠構造の両方で、神からダビデに直接告げられたこととして、ダビデが多くの戦争に関わり、主の前で「あまりにも多くの血を大地に流した」(22:8)ことを、その理由として挙げます。申命記21章には、野で殺された人(犯人不明)の血の責任を誰が負うかについて、メジャーで距離を測って一番近い町が責任を問われるという規定がありますが、おそらく、流血について責任が問われないまま残ると、土地が汚されるという考えを反映しているのでしょう。それでも、戦争での流血については特に規定はないように思います。また、レビ記17章10-16節には、血を食べることに関する禁止令がありますが、血には命があるので、その命によってあがないがなされると説明され、さらに、人が食べる動物の血は大地に流して、その命を神にお返しすることが命じられています。ここでも、戦争での流血については、特に言及はありません。歴代誌の視点では、やはり祭司の清めに関する関心から、より厳しく戦争の流血も大地を汚すと見なして、ダビデが聖なる神殿の建設を行わなかったことの説明としたのでしょう。

 ちなみに、神殿建設の準備に関するこの部分では、このダビデの戦争での流血が理由として繰り返し強調されますが、同じ歴代誌上でも、17章でダビデが神殿建設の願いを神に祈った際に、ナタンを通して神が答えた言葉の中では、この戦争での流血については言及がありません(17:3-15)。

最後に懸念を一つ

 ダビデによる神殿建設の準備を読みながら、冒頭にどうしても気になる表現がありました。22章2節に、「ダビデイスラエルの地にいる寄留者を集めるよう命じ、彼らを神殿建築に用いる石材を切り出す石切り工に任じた」とあります。何となく読み飛ばしそうになりますが、よく読むと、これは在留異国人の強制労働ではないでしょうか? 石切り場から石を切り出す仕事は、かなりの重労働であり、また石に潰されて圧死する危険を伴うもののように思います。申命記では繰り返し、寡婦・孤児・寄留者の権利を守ることが命じられていますし、レビ記でも、イスラエルをエジプトの奴隷の家から救い出した神が、かつてエジプトで寄留者だったのだから、寄留者を軽んじるなと、主の名にかけて命じています(レビ19:33-34)。歴代誌の記述から、高給で優遇したような気配はなく、どう見ても自国内の外国人に危険な労働をさせた強制労働のように読めてしまいます。他にも支配した国や地域からの朝貢のようにして、神殿建設の資材が集めらているような記述になっていて、何だか気が重くなりそうです。神殿建設の闇を垣間見たような…。

 

 

宗教法人日本ホーリネス教団中山教会・ 〒273-0024 千葉県船橋市二子町604-1・ 牧師:河野克也 Katsuya Kawano