nakayama-holinessのブログ

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2021年2月18日 祈祷会の学び(詩編119篇)

祈祷会の学びの動画です

 先ほど終了したライブ配信の祈祷会の学びを、ブログでも提供いたします。


2021年2月18日  祈祷会の学び

 

アルファベト詩の形式美

 前回の112篇の時にも、詩編の中にある「アルファベト詩」についてお話ししましたが、実際にお見せする方がわかりやすいと思いますので、111篇と、119篇の冒頭部分の2種類の画像を提供いたします。これは、BHS(ベー・ハー・エス:Biblia Hebraica Stuttgartensia)と呼ばれる、ドイツのシュトゥットガルトにある聖書協会が出版するヘブライ語聖書の校訂版のページをスキャンしたものです。

 

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BHS 詩編111篇

 まず最初は、詩編111篇の画像ですが、ヘブライ語はかつての日本の横書きと同じく右から左に書きますので、ページも(日本語の縦組みの本と同じく)右から左に進みます。というわけで、右側のページに「111」という篇番号があり、その下に、左のページにまたがって22節が22行で印刷されています。各行の先頭(右端)に、()に入ったヘブライ語アルファベトが書かれていて、その行の最初の単語の最初の文字が、そのアルファベトになっていることが確認できると思います。

 

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BHS 詩編119篇冒頭部分

 次は詩編119篇の冒頭部分です。こちらは、冒頭の文字が8節ずつ(つまり、8行ずつ)同じアルファベトで揃っています。こちらも、各アルファベトの始まりの行の最初(右端)に()でアルファベトが印刷されていますので、わかりやすいですね。

 *ワンポイントアドバイス画像はそのままだと小さいですが、スマホタブレットでご覧の方は、親指と人差し指をくっつけた状態で画面に触って、そのまま画面を触った状態で指の間を広げていくと画面表示が拡大されますので、試してみてください(親指と人差し指でなくてもできますが、小指と薬指はちょっと厳しいです)。同じように、画面上で指を広げた状態から狭めると、拡大したものが縮小されて元に戻ります。

 一目でおわかりように、このアルファベト詩は、文字として揃えて書いた時に美しく見える形式美です。特に119篇のように複数の節の最初の文字をアルファベトで揃える技法は、(音を聞いてすぐに文字が思い浮かぶ人なら別ですが)音読した時にはほぼ失われてしまいます。従って、これは読み書きできる人用のものであり、ある面では、識字教育の教材という機能もあったのでしょう。ちなみに、119篇のアレフだと、各節の最初の単語だけ音を表記してみると、⑴アシュレー、⑵アシュレー、⑶アフ、⑷アッター、⑸アハライ、⑹アズ、⑺オーデハー、⑻エト、となっていて「ア」の音が4分の3です。ベートの9-16節だと、順番にバメー、べホル、ベリッビー、バールーフ、ビスファータイ、ベデレフ、ベフィクッデーハー、ベフッコーテハーとなっています。

 この形式美については、お世話になっている月本先生の解説がとても興味深いので、ご紹介します。〔以下引用〕

 本詩を8節構成にしたのは、…律法を表す8つの単語を一つずつ各節に配置したためであったろう。その8つの単語とは、トーラー「律法」、ミシュパティーム「法」、ダバール「言葉」、フッキーム「掟」、ミツウォート「命令」、エドート「定め」、ピックディーム「指図」、イムラー「仰せ」である。これらには神ヤハウェを表す接尾代名詞(「かれ/あなたの」)が付される。本詩は原則として各節にこれらの単語のいずれかを用いるが、なぜか、8つのすべてが揃う段落は5つのみであり(ヘート、ヨード、カフ、ペー、タウの各段落)、その他の段落ではいずれかの単語が反復される。また、二語が用いられる節(48、172節)、「道」(3、37節)「真実」(90節)「恵み」(122節)などが律法の同義語とされる節などもある。それゆえ、用いられる頻度は、「律法」が25回、「法」が23回、「指図」が21回、「仰せ」が19回、そのほかが22回、と一定しない。本詩は、このように、きわめて作為に富む一方で、統一性を機械的に徹底させることはしない。(月本昭男『詩篇の思想と信仰 V:第101篇から第125篇まで』[新教出版社、2020年]332頁)

 ということです。ちなみに、日本語訳聖書それぞれで微妙に訳語が異なりますので、月本先生の訳語と、新共同訳(共)、聖書協会共同訳(協)、新改訳2017(改)を比較してみたいと思います。8つの単語がすべて揃う8番目の文字ヘートの57-64節で見てみましょう。左から節番号、ヘブライ語、月本訳、新共同訳、聖書協会共同訳、新改訳2017です。

  (ヘブライ語)  (月本) (共) (協) (改) 

57節 ダバール     言葉  御言葉 言葉  みことば

58節 イムラー     仰せ  仰せ  仰せ  みことば

59節 エドート     定め  定め  定め  さとし

60節 ミツウォート   命令  戒め  戒め  仰せ

61節 トーラー     律法  律法  律法  みおしえ

62節 ミシュパティーム 法   裁き  裁き  さばき

63節 ピックディーム  指図  命令  諭し  戒め

64節 フッキーム    掟   掟   掟   おきて

 こうして見ると、同じ聖書協会が発行する新共同訳と聖書協会共同訳は、ピックディーム以外ほぼ一緒で、また月本訳ともかなり重なっていますね。さすがにこの三つの訳を「同じ系統」と言うと、言い過ぎかもしれませんが、少なくとも聖書協会の発行する二つは同じ系統だということがよくわかりますね。これに対して、新改訳2017の方は独自路線のようで、平仮名が多用されています。巻末の「あとがき」によれば、「日本語で通常の意味と異なる意味合いを出したいときなどに、あえて平仮名を用いている場合がある。たとえば、「さばき」「いのち」「みこころ」「みことば」等である」、とのことです。まあ気持ちはわかるけど、個人的には漢字を使った方が一般の人にもわかりやすいと思います。

 新改訳2017には他にもツッコミたくなるところはあって、原則として原語(元のヘブライ語アラム語ギリシア語)が透けて見える「トランスペアレント」な訳を目指していることから、「あがない」に関する用語については、キッペールを類義語のガーアル、パーダーと律儀に訳し分けて「宥めを行う」に統一しているのですが、ここではダバールとイムラーを両方とも「みことば」にしていますね。ここも訳し分ければいいのに、とツッコミたくなります。「あとがき」には、「原語において異なる語は、日本語でできるだけ訳し分けることを原則としているが、最終的には、文脈によって判断している」とありますので、まあそういうことなのでしょう。その「文脈」をどう「判断」するかが、翻訳の難しいところですね。ちなみに私は、キッペールを「宥めを行う」と一貫して訳すことには反対です。そのあたりはまた別の機会に…。

 

思想内容

 詩篇119篇の全体を詳細に論じる余力はありませんが、全体を貫く思想内容は確認しておきたいと思います。月本先生は以下のように要約します。「内容的には、多くの場合、一人称の信頼の詩、嘆きや祈りの詩などの様式を採用しつつ、ヤハウェの律法が知恵の源泉であり、人を幸いな生涯に導く最善の道であることを説いてゆく。それゆえ、『律法詩篇』とも『律法讃歌』とも呼ばれる」(同書332-333頁)。

 先週の112篇の学びでも紹介しましたが、111篇、112篇は、律法を神のみ業と結びつけますが、119篇もその思想を表しています。聖書協会共同訳が「奇しき業」と訳すヘブライ語ニフラオート(111:4; 119:18。月本訳では「不思議なみ業」、新改訳2017「奇しいみわざ」)は、神がイスラエルをエジプトの奴隷の家から救出した解放の出来事を指します。その「奇しき業」と並んで、その類語マァスィーム(111:2,6,7。月本訳「み業」、聖書協会共同訳「業/御業」、新改訳2017「わざ/みわざ」)は、月本氏によれば、「旧約聖書において…、なによりもヤハウェによる万物の創造を指し(詩8:7; 103:22他)、救済と審判として歴史にはたらくヤハウェの行為を表した(ヨシュア24:31; イザヤ5:12他)」ということです(同書196ページ)。その神の御業と律法の結びつきが、111篇および112篇の特徴ということになります。「歴史にはたらくヤハウェの『不思議な業』〔=奇しき業〕も人生に起こる幸・不幸も、神ヤハウェの一方的な恣意によるのではない。神の意志は契約に基づく律法をとおして実現する」(同書197頁)ということです。

 この思想は、119篇でも、18節の「私の目を開いてください/あなたの律法による奇しき業に/目を留めることができるように」という表現の中に、はっきりと表現されています。貧しい者、力なき者、弱い立場の者を憐れみ、それを歴史において実践した神の憐れみ深さが、律法には刻み込まれているのです。続く19節の「私はこの地では寄留者です」との詩人の発言は、文字通りこの詩人が外国に身を置いているというよりも、同じ共同体、同じ民族の仲間、同胞から責め立てられ、苦難に陥っている状況を比喩的に表現しているのでしょう。律法には、かつてエジプトの地で寄留者だったイスラエルを救い出して、彼らと契約を結んだ神が、「あなたがたは寄留者を憐まなければならない」と命じています。だからこそ、この詩人は、律法に記された神のみ心にしたがって生きる自分を攻める敵対者からの苦難を嘆き、救いを求める詩の段落の中で、「寄留者」という言葉を使うのでしょう。

 プロテスタント宗教改革によって、「律法」が「福音」と対立するもののように説明されてきた面がありますし、新約聖書で主イエスと律法の専門家やファリサイ派が対立している状況を読み慣れていることもあって、どうしても「律法」に否定的なイメージを抱いてしまいがちですが、旧約聖書よく読むと、そのイメージは間違っていることがわかります。律法=神の憐れみ=救い、つまり「律法=福音」なのです。その意味で、律法の素晴らしさを教える教育的な意図を持った詩編119篇は、とても重要だと思います。さすがに暗記して朗唱しようとは思いませんが(そもそも日本語訳ではヘブライ語で書き揃えられた美しさが正確に反映されないし、記憶を助けてくれないので)、せっかくの機会ですから、朗唱してみてはいかがでしょう?

 

宗教法人日本ホーリネス教団中山教会・ 〒273-0024 千葉県船橋市二子町604-1・ 牧師:河野克也 Katsuya Kawano