nakayama-holinessのブログ

日本ホーリネス教団中山キリスト教会の公式ブログです。

祈祷会の学び:詩編91篇

詩編91篇について

 予告だけして放置していた先週の祈祷会の詩編91篇を、まとめて短く取り上げます。ライブ配信でお話ししたことの要点になりますが、そこから、多少なりとも、さらに視野を広げてみたいと思います。

 

91篇:主に信頼する人への確証

 詩編91篇は、話者がなかなか分かりにくいような気がします。1節で「いと高き方を隠れ場とする者は/全能者の陰に宿る」という詩人の語りによって始まり、主が信頼する者を守る方であるという全体の主題が述べられます。続く2節では、この「いと高き方を隠れ場とする者」が、一人称で「私は主に申し上げる…」と語り始めます。もちろん、この「私」はこの詩編の詩人なのでしょうが、その後の3節では、この「私」が、二人称の「あなた」に向かって「主はあなたを救い出してくださる」と語りかけます。その後の展開は、この「あなた」に対する主の守りがいかに確かなものかを、多彩な表現を重ねて強調します。9節にある「あなたは、わが逃れ場である主/いと高き方を住まいとした」という表現は、この守りの確証が、「私」の経験に裏打ちされたものであることがわかります。つまり、この「私」は、これまで主に信頼し、主を逃れ場としてきたことによって、3-8節に描写される主の守りをすでに経験的に知っているので、自分と同じように、主に信頼し、主を逃れ場とする「あなた」もまた、同じく確かな守りを経験できる、と告げているのでしょう。

 少しわかりにくいですが、14-16節のカギ括弧に入っている発言は、この「私」と「あなた」が逃れ場とする主が、一人称で語っている部分です。主は、主を慕い、主の名を知り、主に呼び求める者を助けようと、自らに語りかけているのです。

 この詩編は、私たち信仰者がすでに経験している神の恵みを、信仰の仲間に対して確かに示すことを促しているように思います。自分自身の信仰生活の経験が、他者に対する慰めや励ましの根拠になる、ということになりますね。

 月本昭男氏は、詩編91篇11節「主はその使いたちに命じて/あなたのすべての道を守られる」の部分について、その表現が出エジプト23章20節「私は使いをあなたの前に遣わし、あなたの旅路を守り、私が定めた所に導き入れる」と一致することを指摘します(『詩編の思想と信仰』Ⅳ:260頁)。ここから、月本氏は、出エジプト記に描かれる「民の救済史伝承」が、詩編91篇に描かれる「信仰者個人の歩みの範型とみなされた」ことを指摘します(同260-261頁)。私たちの個人としての信仰は、信仰共同体の歩みと重なり合い、共同の経験によって支えられている、というわけです。この点について言えば、私たち中山教会は、戦時中に弾圧を受けて解散を余儀なくされ、戦後間も無く伝道を再開したのですが、その共同の歩みに表されている神の守りが、中山教会に属する私たち一人一人の信仰を支えている、ということもできるのではないでしょうか。

 月本氏はさらに、「神ヤハウェへの『信頼』と『み使い』による庇護とをこのように関連づけたのはダニエル書が最初である」として、ダニエル書3章の3人の若者の物語と詩編91篇の関連を指摘します(同261頁)。それは、「み使い」(マルアーク)という単語が「天使」の意味で使われるのは、比較的後の時代であり、ダニエル書が「み使い」を「神の子」に似たものとして描いていることとも関連するようです。

 

 信仰者と苦難について

 詩編91篇の内容については、原則的なこととして、主の守りの確かさが謳われていますが、これは必ずしも、信仰者が一切苦難を経験しない、という意味に理解すべきではないと思います。現在の新型コロナのパンデミックを考えても、信仰を持たない人だけが「あなたの傍に千の人、あなたの右に万の人が倒れ」て、信仰をもっている「あなた」だけが無傷でいられることを保証しているということではないでしょう。信仰を持っていても病気になり、事故にあい、事件に巻き込まれることもあるのです。たとえそうした事態に陥ったとしても、私たちと主との関係は損なわれることがない、という信仰告白として、この詩編を読むべきだと思います。

 ダニエル書3章に描かれている、ダニエルの3人の友人たち(シャドラク〔ハナンヤ〕、メシャク〔ミシャエル〕、アベド・ネゴ〔アザルヤ〕)が経験した苦難の記事では、バビロンのネブカドネツァル王の立てた金の像(おそらくバビロンの神の像)を拝むことを拒んだため、燃える炉に投げ込むと脅された際に、彼らは、自分たちの仕える神は、燃える炉とネブカドネツァル王の手から自分たちを救い出すことがおできになるとの確信を述べる一方で、続けて「たとえそうでなくとも」彼らはネブカドネツァル王に仕えることも、王が立てた金の像を拝むこともしない、と宣言します(ダニエル3:18)。もちろん、この物語では、神がみ使いを送って彼らを救い出すのですが、彼らの表明した信仰が、詩編91篇に述べられている信仰の確信と重ねて読まれる必要があると思います。

 

十字架上の叫びの信仰

 マルコ15章34節(マタイ27:46)にある主イエスの十字架上の叫びも、このダニエル3:18の光で読むのが良いと思います。

 「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」は、明らかに詩編22篇2節(標題を節に数えない場合は1節)の言葉の引用です。この詩編は、冒頭の叫びとは裏腹に、全体を通して、苦難の中から救い出してくださる神への信頼が謳われています。マルコ15:34は、イエスが自らの十字架刑を、その先にある復活を予期することなく、純粋に神から見捨てられた事態と理解した叫びだとする理解が一般的かもしれませんが、1世紀のユダヤ教(初期ユダヤ教)における黙示的終末理解、特に復活信仰の背景を考慮に入れるなら、イエス自身が少なくとも一定程度復活を予期していたと考えることは、むしろ歴史的に蓋然性が高いと言えるのではないでしょうか。イエス自身は預言者としての自覚を持ち、それゆえに「預言者エルサレム以外のところで死ぬことは、ありえない」(ルカ13:33)との信念から、エルサレム行きを決意して旅を進めた(ルカ9:51)ことは確実だと思いますので、そのイエスが、詩編22篇の語り手である苦難の中で神に信頼する義人と自分を重ね合わせていたと考えられるのです。

 ただし、イエスがどれほど具体的に、十字架の死後の復活を思い描いていたかについては、確実なことはわかりません。ヨハネ11章17-27節に描かれるベタニアのマルタとの会話では、病死したラザロの復活について、「終わりの日の復活の時に復活する」と理解していたマルタの信仰に対して、自らを「復活であり、命である」と宣言するイエスは、今この時の復活の命を告げます。ヨハネの視点をどこまで加味すべきかは判断が分かれるでしょうが、少なくとも、イエスが当時一般的だった復活理解を超える神の恵みを語ったことは確かでしょう。また、イエス自身が義人の不当な死を覆す神の正義に対する信頼を抱いていたからこそ、詩編22篇の冒頭を十字架上で引用したのでしょう。

 いずれにせよ、マルコ15:34は、少なくとも復活に対する信仰を持たない人物の絶望の叫びではなく、復活させる神への信頼に裏打ちされた告白と理解すべきだと思います。その上で、十字架上のイエスは、事前に台本を渡されて苦難の義人を演じているわけではなく、十字架の死の先について確約のないままに、ダニエル書3章18節の「たとえそうでなくとも」に表現されているのと同じ信頼をもって、父なる神に信頼していたのだと思います。

 この点は、荒野の誘惑における主イエスの父なる神に対する信頼にも現れていると思います。悪魔は主イエスに対して、詩編91篇11節を引用して誘惑を仕掛けます(ルカ4:9-11//マタイ4:5-6)。この引用は、神殿の建物の一番高い部分から境内に飛び降りることを促す誘惑の場面(ルカでは3番目、マタイでは2番目)ですが、イエスは「あなたの神である主を試してはならない」との申命記6章16節の聖書の言葉を切り返して、その誘惑を退けます(ルカ4:12//マタイ4:7)。ここに描かれている主イエスの父なる神への信頼は、ダニエル書3章18節の信仰と重なるものではないでしょうか。

 

 詩編98篇については、またいずれ、、、。

 

 

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