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2024年1月18日祈祷会の学び:補足説明

先ほど終了した祈祷会の学びの補足です

 祈祷会の学びの中で「応報思想」についてお話ししましたので、少し補足いたします。ヨブ記を読むにあたって参照している図書は、以下のものです。

 

ヨブ記」並木浩一訳・注『旧約聖書ヨブ記 箴言」(岩波書店、2004年)、1-175頁。

並木浩一「ヨブ記解説」『旧約聖書ヨブ記 箴言」(岩波書店、2004年)、307-358頁。

並木浩一「対話のドラマトゥルギー:ヨブと神」、旧約聖書翻訳委員会編『聖書を読む:旧約篇』(岩波書店、2005年)、179-212頁。

並木浩一『ヨブ記注解』(日本キリスト教団出版局、2021年)。

 

上記『ヨブ記注解』の「序論」(15-79頁)の「5. ヨブ記のテーマ」(24-52頁)の中で、「5.1. 苦難」(24-29頁)、「5.2. 応報思想」(29-35頁)、「5.3. 神義論」(35-41頁)を参照しました。

 

5.1. 苦難:

 苦難をどのように理解するか、苦難にどのように対応するかという点について、一方ではそれを合理的に説明し、受け入れる態度が紹介されます。「西方世界、厳密に言えばメソポタミア以西の文明圏では、ストア派に代表されるように、情念を排除して自然本性の合理性を信じ、正しい論理によって苦しみを受容する試みがなされた。それは知的エリートの姿勢であって一般化しなかった」(25頁)。ヨブの3人の友人たちは、この苦難の合理的説明の立場を代表します。これに対して、「ヨブの場合、苦難は神の意志との関わりで意味づけるべきものであった。彼は友人たちが説く苦難の合理的な解釈には徹底的に抵抗した」、と説明されます(26頁)。「ヨブの苦難は徹底して、彼と神との関係性の問題であった」(27頁)のであり、「高潔さを貫いてきた自己に下った過酷な災厄」は、「神に由来するものである」ゆえに「神の不当行為」であり、神がその災厄を下した理由を一切説明せず、「対話が一方的に閉ざされた」ことは、ヨブにとって「神の正義」が「無意味」となり、「神が神でなくなり、創造世界もまた存立の根拠を失い」、「彼が生存する意味そのものを脅かす切羽詰まった問題」でした(26-27頁)。

 

5.2. 応報思想:

 友人たちは、このヨブの苦難をヨブが犯した罪(悪)に対する正当な罰として合理的に説明することを試みます。それは「応報思想」ということですが、友人たちの応報思想が個人単位での「善因善果、悪因悪果」として完結するのに対して、ヨブが自らの潔白の主張の根拠とするのは、「社会性を持った正義の観念」に基づくものであり、友人たちとの議論は噛み合いません。

 両者の違いをより詳しく見てみましょう。友人たちがヨブを責め立てる根拠の応報思想では、神的法則として「必然性を伴った『原理』(theory)」となっているため、現実世界の不正義を前にして、神の正義を弁護するためには、「神による応報は超自然的に行われ、確実であるという『共同幻想』に生きるしかなくなります。これに対して、ヨブの側の社会性を持つ方の応報思想では、「『善には善が対応する』という社会正義は、社会の『原則』(principle)であり、神も〔この原則を〕尊重する」のです。この「応報原則」は「必然」ではなく、社会を構成する「人々の自由な判断と行為」によって「現実化」されるものとされます。この場合、神も人間も等しく、「自由な判断に基づいて判断し、行為する」のであり、決して「機械的に判断を下して行動しない」とされます。友人たちの主張の根拠である「応報原理」の方が個人で完結するのに対して、ヨブの主張の根拠である「応報原則」が社会性を持つという違いについては、そこに神また人間の自由が想定されているかどうかの違い、ということになります。

 ヨブの側の応報原則について、少し引用してみます。(以下、引用)

共同体は、共同体に寄与する人物には名誉を帰し、重大な悪を行った者には相応の制裁を行う。それを正当とする原則を人々が信じ、その価値観を共有するとき、その共同体は「法共同体」として存立している。…敬虔な善人には神から幸せが、悪人には不幸がもたらされて然るべきである。この宗教的・道徳的観点から見ての「かくなされて然るべし」という意識がイスラエルを含む西方世界では「正義」の観念を育て、これを安定的に実現し、維持するための「法」および法思想を生み出した。…イスラエル民族は、ヤハウェが正義を欲する神であり、契約を尊重するものと理解した。契約関係は自由な応答によって維持される。

(並木『ヨブ記注解』30頁)

 この理解から、ヨブは、理由も示さずに(したがってヨブの目には「理由なく」と見えた)これまでの祝福を突然取り去ったことに対して、それを神の側での一方的な「契約関係の無視」であり、「極めて不条理な行為」であると判断し、猛烈に抗議したのです。この理解では、「人が神の正義を問うこと」は、決して不信仰ではなく、むしろ「『神の像』として創られた人間に許された主体性の行使」であり、最終的に神が(またもや突然)ヨブに答えた場面は、「ヨブと神との間で応報原則が共有されて」いたことを示すものなのです(31頁)。

 並木先生の『ヨブ記注解』の序論を読みながら、私たちが「神の像」に創られたことの重みを噛み締めています。人間には自由と主体性が与えられているのです。罪とは、その自由と主体性の悪用であり、自由と主体性のないところには罪は成立しない、ということになるでしょうか? そう考えると、キリスト教の歴史の中で発展した「原罪」(originl sin)という教理は、むしろヨブの友人たちの視点、あるいは特にのちに参入(乱入?)したエリフの視点に近い、ということになるのかもしれません。(この辺りはもう少し丁寧に考えてみる必要がありそうですね。)

 

 とりあえず今回はここまでにして、次週25日はヨブ記41章ですので、38章以降の神によるヨブへの応答と、それに対するヨブの答えを見ていこうと思います。次回も並木先生の『ヨブ記注解』に頼りながら、読み進めることになります。

 

 

 

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