nakayama-holinessのブログ

日本ホーリネス教団中山キリスト教会の公式ブログです。

5月21日:祈祷会の学び

とりあえず動画なしの学びです

 先ほどのブログでご説明しましたが、現在、動画ファイルを取り込むスペースを確保するため、パソコン内の大きフォルダーを移動中で(これはあと5分程度?)、それからファイルの取り込み(30分程度)、編集(30分程度?)、書き出し(1時間程度?)、アップロード(30分程度?)という作業手順になりますので、まずはブログ記事として、動画なしの学びを提供いたします。

 

列王記下11章…でもエリヤとエリシャの比較も

 中山教会の今日の聖書通読箇所は、列王記下11章です。ですが、11章だけだとなんともやりにくいので、より大きな範囲からエリヤとエリシャの比較もしてみたいと思います。

エリヤとエリシャ:預言者エリヤの活動

 エリヤは列王記上17章で最初に登場します。エリヤは、イスラエル旱魃が起きて飢饉が襲ってくるとの預言をアハブ王に告げた後、ヨルダン川東岸の渓谷に身を隠し、渓谷の水とカラスが1日2回運んでくるパンと肉で生き延びます。その警告が干上がると、今度はイスラエルの北にある地中海沿岸の貿易都市シドンのやもめの元に身を寄せますが、そこでは、このやもめの家にわずかに残っていた小麦粉と油が、主の祝福によって毎日継続(増加?)されて、生き延びます。また彼女の息子が病死すると、エリヤは神に祈って息子を生き返らせてもらいます。

 18章では、先週学んだように、バアルの預言者(とアシェラの預言者)との一騎打ちを行ない、主こそ神であることを証明します(エリア自身が証明したわけではなく、あくまでも神ご自身が証明したのですが、、、)。19章では、これも先週見た通り、バアルの預言者のスポンサーである王妃イゼベルに命を狙われるようになって、イスラエルの北西の端からシナイ半島の神の山ホレブまで逃避し、そこで神の声を聞き、預言者としての使命に立ち返ります。この時、エリヤはハザエルに油を注いでアラムの王とし、イエフに油を注いでイスラエルの王とし、エリシャに油を注いで自分の後継預言者とします(15-18、19-21節)。

 20章は、アラム(口語訳:スリヤ)の王ベン・ハダドがサマリアを包囲する危機が訪れますが、無名の預言者が主の言葉を取り次ぎ、アラムとの戦いに勝利するものの、ベン・ハダドと協定を結んで逃したことが、後々の災いになることが書かれています。(不思議ですが、この預言者はエリヤではないのですね。)

 21章は有名なナボトのぶどう畑の出来事です。イズレエル平原にある宮殿脇のぶどう畑の所有者ナボトに、そのぶどう畑を譲って欲しいとの要請を断られたアハブ王がスネていると、見かねた王妃イゼベルが、王の名でナボトに対する不正な裁判を仕掛け、ならず者に偽証させてナボトを処刑させてそのぶどう畑を手に入れるという、途方もない不正を働きます。エリヤはその不正を告発し、二人の残酷な死を預言します。22章は、その預言の成就として、アハブ王の最後を描きます。

 エリヤ物語は列王記下の冒頭でも続き、下1章では、アハブの後継者アハズヤが屋上から落ちて怪我をして、自分の怪我が治るかどうか偶像バアル・ゼブブの神託に伺いを立てようとした際に、エリヤは、主なる神に頼らず偶像に頼ったアハズヤの死を預言します。この時、エリヤの元に送られた王の使いの者たちは、次々と天からの火によって焼かれます。(このエピソードは、主イエスの弟子であるゼベダイの子ヤコブヨハネが、エルサレムに向かう主イエス一行を歓迎しなかったサマリアの村に、天から火を下して滅ぼすことを提案した場面[ルカ9:51-55]の背景になっていますね。)そして、列王記下2章では、エリヤはつむじ風(竜巻?)の中、天に引き上げられて見えなくなります。

 エリヤの活動を見ると、悪事を働く王に対して、対決姿勢で臨んでいることがわかります。アハブ王と王妃イゼベルによって本格的(国家的)に導入されたバアル祭儀を批判し、王の不正を批判したエリヤは、アハブ王からも王妃イゼベルからも敵視されていたことが大きな特徴と言えるでしょう。

エリヤとエリシャ:預言者エリシャの活動

 エリシャは、多くの面でエリヤと重なります。列王記下2章では、エリシャが正式にエリヤの後継者となる場面が描かれます。上19章19節でエリシャの召命に大きな役割を果たしたエリヤの外套が、ここでも大きな役割を果たします(下2:13-14)。エリヤの霊の2倍の分け前を求めたエリシャ(2:9-10)は、エリヤの残された外套を拾い上げることで、エリヤの霊の分け前を受け取った、という描写なのでしょう。

 直後の二つのエピソードは、悪い水を塩で清めて人が住める土地にした方は読みやすいですが、自分の禿げ頭を愚弄した少年たち40数名を呪い殺した(実際に引き裂いて殺したのは熊ですが、それは主の名によって呪ったエリシャの呪いの結果です)方は、なんとも説教になりそうもない(してはいけない?)闇のエピソードのような気がします。預言者の権威は不可侵であるかのような記述で、個人的にどうも好きになれません。

 4章はエリシャの奇跡物語が記されますが、夫に先立たれて生活に困窮する仲間の預言者の妻に対して、その家の油が器の数だけ増えて、それを売って負債の返済と生活費が賄えたというエピソードは、上17章でエリヤを養ったサレプタのやもめの家から、小麦粉と油が尽きなかったエピソードと重なります。また、エリシャを日常的に支えたシュネムの女性に対しては、子どもが与えられることを預言し(エリシャが種に祈り求めたということ)、その息子が病死すると、エリヤと同様に、その子を生き返らせます。そのほか、飢饉の時に野生の植物で作った鍋に毒草が紛れ込んだ際には、麦粉を入れて毒を消し、また限られた量の差し入れのパンを配って百人を満腹させますが、このパンの奇跡は、言うまでもなく、福音書に描かれる5つのパンと2匹(2切れ)の魚で五千人以上の群衆を満腹させた、主イエスのパンの奇跡の背景です(マルコ6:30-44他)。

 5章では、アラム軍の将軍ナアマンの「規定の病」を清め(ヨルダン川で七回沐浴)、6章では、借り物の鉄製の斧を川に落とした仲間の預言者に対して、その斧を不思議な仕方で取り戻します。

 6章には他にも重要なエピソードが記されています。エリシャは、当時戦闘状態にあった敵国アラムの軍隊の目を眩ませて首都サマリア内におびき寄せますが、その殺害を望むイスラエル王を制して、むしろ盛大な宴会で敵をもてなして送り返すことで、その後攻め込んでこなくなったと記されています(8-23節)。これは、憎しみと暴力の連鎖を断ち切ることであり、復讐せず、敵を愛すること(マタイ5:38-42, 43-48)、また悪に悪を返さず、善をもって悪に打ち勝つ(ローマ12:9-21)という、新約聖書の中心的教えの先取りと言うと、言い過ぎでしょうか? ここでは、イスラエル王がエリシャに「わが父よ」と呼びかけていることです(21節)。王よりも預言者の方が上と言うか、少なくともエリシャがこの王(名前は記されていません)から絶大な信頼を得ていることがわかります。

 列王記下6章の続きの部分(24節以降)は、人間世界の現実を描いているようで、「喉元過ぎれば」何とやらではないですが、先の愛敵の出来事がなかったかのように、しばらくするとアラム軍はサマリアを包囲し、兵糧攻めで攻め立てます。その結果ハイパーインフレに襲われて、「ろばの頭一つが80シェケル」(銀5.6g x 80 = 448g/銀貨80枚?)、「鳩の糞4分の1カブ(325ml)が銀5シェケル」に価格が高騰します。我が子を食べるほどに困窮した女性が王に訴えると、王(先の王と同一人物でしょうか?)は、王自身も粗布をまとっているような(嘆きの表現)その状況に対して、全く役に立たない(と思われた)エリシャを呪い、その首をはねることを誓います(31、32節)。この状況に対して、主なる神は奇跡をもってアラム軍を恐怖に陥れて逃走させたため、アラム軍の大量の食料が手に入り、上質の小麦粉1セア(7.7リットル)も大麦2セア(15リットル)も1シェケルと、価格が急落します(7章)。エリシャはこの価格の急落を預言しますが、7章の記述からは、その出来事自体がエリシャの手柄でないことは明らかです。

 8章では、先に息子を生き返らせてもらったシュネムの女性について、エピソードが一つ紹介されます。7年の飢饉を逃れるようにとのエリシャの言葉を受けて、ペリシテの地に逃れていたこの女性が戻ってきた際に、エリシャの従者ゲハジの取り次ぎで、自宅と畑を無事取り戻せたという出来事です(1-6節)。これは、主なる神の憐れみの一貫性を表しているように思います。それにしても、イスラエルの王がわざわざゲハジを呼んで、預言者エリシャの業績の聞き取りを行っている場面(4-5節)は、印象的です。その前の「わが父よ」というイスラエル王のエリシャへの呼びかけもそうですが、エリシャとイスラエル王との関係性は、エリヤがイスラエル王アハブと対立していた状況とは対照的です。エリシャの方が王宮に近い存在だったということでしょうか?(かつてダビデ王に仕えた、アドバイザー的預言者ナタンに近いイメージなのかもしれません。)

 全体として、エリシャはエリヤの霊の2倍の分け前を受け取ったと言えるでしょうか? 判断は難しいですね。

次回は王たちの成績表?

 今回はとりあえずこの辺りで。次回、列王記下における王たちの評価を見てみましょう。

宗教法人日本ホーリネス教団中山教会・ 〒273-0024 千葉県船橋市二子町604-1・ 牧師:河野克也 Katsuya Kawano