nakayama-holinessのブログ

日本ホーリネス教団中山キリスト教会の公式ブログです。

2020年10月25日 礼拝

ライブ配信した礼拝の動画です

 いろいろあって遅くなりましたが、礼拝のライブ配信動画をブログでも提供いたします。

 


2020年10月25日 礼拝

 

 今朝は、先週からの続きで、ルカ福音書にのみ出てくる72人の弟子たちの宣教派遣の記事の続きで、戻ってきた弟子たちの報告と、それを受けての主イエスの祈りの場面です。

 この宣教派遣の場面は、興味深いことに、主イエスがペトロのメシア告白を受けてエルサレムでの受難を予告した(9:18-22)後、いよいよエルサレムに向かう決意をして出発し、すでに半分程度の道のりを進んでサマリア人の村に入られた(9:51-56)後に描かれています。ここに書かれている内容は、10章1節では、主イエスが「ご自分が行こうとするすべての町や村に…先にお遣わしになった」とあり、13-16節では、ガリラヤ湖の北西にある町々の名前(コラジン、ベトサイダ、カファルナウム)を挙げて、悔い改めないことを嘆いていることから、むしろエルサレムに向かって出発する前のガリラヤでの宣教活動に関することのようです。それでも、敢えてエルサレムでの受難に向かう旅路にこのエピソードを置いたことで、ここで宣教に派遣される72人が、9章57-62節にある厳しい弟子の覚悟についての教えを踏まえてなお主イエスに従ってきた、いわば強者たちという印象を受けます。先に、ガリラヤで12使徒が宣教に派遣されて成功裏に悪霊を追い出した(9:1-6, 10)後、主イエスがペトロ、ヤコブヨハネの3人だけを連れて山に登り栄光の姿を見せている間に(9:28-36)、麓に残っていた9人が悪霊追放に失敗したことが記されていますが(9:37-40)、この72人は首尾よく悪霊を追放し、その成功体験を喜んで報告します(10:17)。

 しかし、彼らの喜びと、主イエスの喜びは、その理由が異なっています。72人は悪霊が自分たちに服従することを喜んでいますが、主イエスは彼らの「名が天に書き記されていること」(10:20)を喜ぶのです。弟子たちの喜びは、権威(と言っても主イエスの名の権威ですが)に魅了された喜びではないでしょうか? 主イエスは、弟子たちの宣教によって「サタンが天から落ちるのを見ていた」と告げますが、このサタン(=悪魔)は、以前、主イエスを誘惑した際に、この世界に対する自分の権威を主張して、世界中の「国々の権力と栄華とを与えよう」と持ちかけます(4:5-6)。もちろん、ルカ福音書の視点からは、この悪魔の発言は偽りなのですが、弟子たちの宣教によってサタンが天から落ちたとの描写は、サタンが実際にはこの世界に対して何の権威も持っていないことを示していると思います。つまり、偽りの(虚構の)権力の座から転落した、ということでしょう。

 4章の荒野の誘惑で描かれる、権力を振るって支配する悪魔の姿は、後に、来るべき主イエスの王国/支配において、誰が最大の権力を手にするかを巡って、最後の晩餐の席上で(!)醜い争いを繰り広げる使徒たちに対して、そのような権力争いは、神の国のあり方とは真逆であると警告して主イエスが描いて見せた、異邦人の支配者たちの姿に重なります(22:24-27)。悪霊が服従することを喜んだ弟子たちは、偽りの権力をチラつかせて主イエスを誘惑し、神の支配の拡大によって天から落とされたサタンの側に近づきつつあったのかもしれません。これに対して、主イエスは、喜ぶべきは絶大な権力を手にしたことではなく、父なる神と御子なる神との交わりであると語っているのではないでしょうか。

 主イエスの祈りの言葉(10:21-24)は、父と子の親密さを示すとともに、「子が示そうと思う者」もまた、その親密な交わりに加えられていることを示していると思います。特に、ここで宣教から戻ってきた弟子たちを、「知恵ある者や賢い者」と対極にある「幼子」として描いていることは、(私たちが一般に思い描く)「純粋無垢」といったイメージよりも、権力から遠い存在、権力者たちの視点からは取るに足らない存在であることが強調されているように思います。あるいは、悪霊に取り憑かれ、悪魔の支配のもとにあるとは、映画などで描かれるおどろおどろしい現象であるよりも、むしろ日常的に見られる権力欲に支配され、権力に酔っている人間の在り方を指しているように思います。悪霊の影響、悪魔の支配は、うっかり見逃してしまうほど地味で、日常的な状態なのかもしれません。

宗教法人日本ホーリネス教団中山教会・ 〒273-0024 千葉県船橋市二子町604-1・ 牧師:河野克也 Katsuya Kawano