nakayama-holinessのブログ

日本ホーリネス教団中山キリスト教会の公式ブログです。

2021年6月20日 礼拝

6月20日聖霊降臨後第四主日)の礼拝動画です

 先ほど終了した礼拝のライブ配信動画を、ブログでも提供いたします。

 


www.youtube.com

 

14-18節 つなぎ?

 14-15節は、1-13節の「不正な管理人」の譬え+教えに対するファリサイ派の人々の反応と、それに対する主イエスの応答です。「金に執着する」という表現にドキッとしますが、何もファリサイ派に限ったことではなく、私たちも富の誘惑にさらされて生きているのだと、あらためて考えさせられます。「人々の間で尊ばれるもの」は、前の譬えの締めの言葉(13節)からしても、「富」つまりお金、ということになります。

 16-17節には「律法と預言者」という表現が出てきますが、これはそれぞれトーラーつまり「モーセの律法」と、預言書とを指し、両方合わせて「聖書」ということになります。「ヨハネの時まで」という表現で、主イエスの宣教によって新しい時代が始まったことを表現しているのでしょう。ルカ4章のナザレの会堂のエピソードでは、主イエスイザヤ書61章を朗読し、そこに書かれている「主の恵みの年」、つまり終末におけるヨベルの年の実現を宣言した際に、「貧しい者に福音を告げ知らせる」という表現がありますが、ルカは、「神の国の福音」が主イエスの宣教によって始まったことを強調しているわけです。

 ただし、16節の後半部分はよくわかりません。主イエスの福音宣教を受けて、人々が神の国に激しい勢いで殺到しているのか、それともサタンと悪霊とが激しく襲っているのか、ルカの表現だと、どちらとも取れそうです。何れにせよ、主イエスの福音宣教によって激動の時代に入った、ということは確かでしょう。

 そうなると、17節の「天地の消え失せるほうが易しい」という表現も、その激動の時代、つまり終末の始まりを示しているのだと思います。というわけで、17節は、天地が滅びるとしても律法は一画も落ちることはない、つまり律法は隅々まで有効だ、ということを言っているのだと思います。

 18節は、その律法の有効性を示す一例という位置づけかもしれません。マルコ10章(&マタイ19章)には、もう少しスペースを割いて離縁についての教えが記されていますが、そこでは、ファリサイ派の人々が、モーセ律法の言葉を盾に、主イエスを試そうとして離縁についての質問を投げかけていますので、このルカの箇所も、何となくそれが背景にあって、彼らの質問が律法の精神を曲げてしまっているという反論なのかもしれません。人間は自分の都合で律法の教えを「解釈」してしまうが、律法の本来の教えは変わらない、という宣言だと理解すれば、前後のつながりが良いと思います。そして、その律法の本質は、イザヤ61章のヨベルの宣言や、ここまでのルカの強調からも、貧しい者を憐れむ神の愛に集約されることは明らかです。19節以降の「金持ちとラザロ」の譬えでも、「モーセ預言者」(つまり聖書/律法)という表現が繰り返されていますから、14-18節と同じことが強調されていると考えて良いと思います。

 「金持ちとラザロ」の譬えは比較的シンプルなので、この続きは動画の方でどうぞ。

 

宗教法人日本ホーリネス教団中山教会・ 〒273-0024 千葉県船橋市二子町604-1・ 牧師:河野克也 Katsuya Kawano