nakayama-holinessのブログ

日本ホーリネス教団中山キリスト教会の公式ブログです。

2020年11月15日 礼拝

ライブ配信した礼拝動画です

 先ほど終了した11月15日のライブ配信の礼拝動画を、ブログでも提供いたします。

 


2020年11月15日 礼拝

 

 今日の箇所は、マルタとマリアの姉妹に関するエピソードです。教会学校などでも良く取り上げられるので、比較的よく知られた箇所だと思います。

 この箇所は、従来、「必要なこと」また「良い方」とされる、主イエスの「話を聞いていた」マリアの行為と対比されることで、マルタの「もてなし」の行為が「思い煩い」として、低い評価を受けてきたように思います。その一方で、特にフェミニスト批評(フェミニズムの視点から聖書を読み直す解釈方法)の影響もあって、ここで聖書協会共同訳が「もてなし」と訳したギリシア語が、教会のミニストリー/働きなどを指しても使われる「ディアコニア」であることに着目し、マルタが重要な働きを担っていたとする理解もあります。ちなみに、ディアコニアをする人をディアコノス(執事:deacon)と呼びますが、教派によっては教会の指導的立場の人を指す役職名担っています。

ディアコニアの用例

 ディアコニアは、ルカ福音書ではこの箇所(10:40)にしか出てきませんが、使徒言行録では合計8回使われています。使徒1章17節と25節では、12使徒の働きを指して使われていて、「任務」と訳されています。6章1節では、最初期のエルサレム教会で、ご主人に先立たれたやもめ方々のための日毎の「配給」(ディアコニア)に関する混乱が報告されています。当時は社会保障制度がなかったこともあり、また女性が一人で自立して社会生活を送れる状況でもなかったため、一般的には身寄りのないやもめは社会的に貧しい状況に置かれていました。それで、教会が信徒の中のやもめに対して生活支援を行っていたようです。ところが、ヘブライ語アラム語)を話すユダヤ人のやもめには配給が行き届いていたのに、ギリシア語を話すユダヤ人のやもめには行き届かない事態が生じたため、12使徒とは別に、ギリシア語を話すユダヤ人クリスチャンのグループの中から彼らのために指導者を別に立てることになります。興味深いことに、6章2節では、12使徒の働きが「神の言葉」に関するものと言われているのに対して、新たに選出される7人については、「食卓の世話をする」ことと訳されています。ここで「世話をする」と訳されている動詞はディアコネオーで、ディアコニアと同根語です。この7人の実際の活動内容は、そのあとの展開を見ると、決して食事関連や生活支援の配給に限定されず、積極的な福音宣教を行っていますので、彼らもまた「神の言葉」の働きを担っていたことになります。そうなると、ここでの「言葉」と「世話」の対比をどう理解すれば良いのか、なかなか納得できる説明が見当たりません。

マルタとマリアの対比

 同様に、ルカ10章のマルタとマリアの対比も、主イエスの「言葉」と「食卓の世話」として、単純に区別できるかどうか、判断が難しいところだと思います。ルカ10章の文脈からは、マルタが具体的にどのようなことをしていたかは明確に記されていませんので、詳細は分かりません。実際のところは、食事の準備などに限定されるものだったのか、主イエスのお話を聞こうとして集まってきた群衆の対応だったのか、というあたりが選択肢として考えられます。後者の場合、教会でいうと、受付や案内係に相当すると考えれば、何となく集会関連の大切な「奉仕」という側面も見えてきそうです。

 何れにしても、ここで注目すべきは、マリアの行為が、「彼(主イエス)の言葉(ロゴス)を聞く」ということであり、それが主イエスによって、「必要なこと」また「良い方」と言われている、ということです。これを根拠に、マルタの行為を「必要ないもの」とか「悪い方」と評価すべきではないでしょう。大切なことは、ルカが読者のフォーカス(焦点)を主イエスの言葉を聞くことに向けていることです。

主イエスの言葉

 ルカ10章38節では、このエピソードの導入として、わざわざ主イエスとその一行の「旅」に言及します。この「旅」は、9章51節で主イエスエルサレムに向けて出発する決意をして始めた、受難に向かう旅であることが書かれています。つまり、ルカは受難に向かう主イエスに読者の目を向けさせているのです。この主イエスは、旅の始まる少し前の「変貌山」のエピソード(9:28-36)では、雲の中から聞こえた神の声によって、天の父なる神の「愛する息子」であり、神が「選んだ者」であることが強調されます(35節)。この天からの声は、さらに遡ると、主イエスバプテスマのヨハネから洗礼を受けた際にも、「天が開け、聖霊が鳩のような姿でイエスの上に降って来た」際に、天から聞こえた声と重なります(ルカ3:21-22)。そこでは、天の父なる神が、御子イエスに向かって、「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」と語りかけます(22節)。

 最初の要素を見ると、聖書協会共同訳では、9:35も3:22も「愛する子」ですが、この「子」は「ヒュイオス」なので、正式な相続権者という意味も込めると「息子」と訳すこと良いと思います。ただし、男性の子どもに限定する訳語は、ジェンダーに関する一方的な視点を反映してしまうので、現代語では敢えて「子」と訳すのも、良い判断だと思います。

 二つ目の要素は、9章35節では「私の選んだ者」、3章22節では「私の心に適う者」ですが、9章の方には三つ目の要素が加わっています。それが、「これ(彼)に聞け」という神からのご命令です。この三つ目の要素によって、ルカは、読者に対して、この受難に向かう救い主の人格と教えに注意を向けるようにと促しているのです。ここでの「聞く」(動詞:アクーオー)は、単に「聞く」というだけでなく、「聞き従う」という意味に理解するのが良いでしょう。「平地の説教」(6:20-49)の教えや「善いサマリア人」の譬え物語(10:25-37)だけでなく、主イエスの一行を歓迎しなかったサマリアのある村に対して、天から火を下して焼き滅ぼすことを提案したヤコブヨハネを叱責した言葉(9:51-56)も含めて、この受難に向かう主と、その言葉に聞き従うことを促しているのです。

 そのように読むと、主イエスの足元に座って主イエスの言葉を聞いていたマリアの姿は、少なくともルカの描写では、受難の主イエスに聞き従う模範的な弟子の姿として読むこともできるように思います。

宗教法人日本ホーリネス教団中山教会・ 〒273-0024 千葉県船橋市二子町604-1・ 牧師:河野克也 Katsuya Kawano