nakayama-holinessのブログ

日本ホーリネス教団中山キリスト教会の公式ブログです。

2020年11月19日 祈祷会の学び

祈祷会の学び:ライブ配信動画

 本日の中山教会の聖書通読箇所は、詩編28篇です。先ほど終了したライブ配信の動画をブログでも提供いたします。


2020年11月19日 祈祷会の学び

 

ダビデの詩

 詩編28篇には「ダビデの詩」という短い標題が付けられています。この標題は、「ミズモール・レ・ダウィード」というヘブライ語ですが、「レ」の部分は前置詞で、その意味範囲は比較的広く、英語では「to, toward, for」などと訳されます。日本語で言えば、「ダビデ作、ダビデのために、ダビデによせて、など種々に解されうる。いずれにせよ、ダビデが竪琴の演奏や詩作にすぐれていた、との伝承にちなむ編集句」であると説明されます(月本昭男『詩篇の思想と信仰 Ⅰ:第1篇から第25篇まで』[新教出版社、2003年]、39頁。この説明は、詩編3篇の解説の部分の引用)。日本語で「ダビデの詩」と、格助詞「の」で表現されると、「ダビデ作」の意味に読み取れますが、原語の意味としては、「ダビデに関する詩」とか、「ダビデ歌集の詩」(ダビデを主題とする詩を集めた「歌集」に属する詩)などの意味にも理解できます。その場合には、ダビデよりも後の時代の信仰者が、自分の経験している状況とダビデの生涯の場面とを重ね合わせて詠った詩、ということになります。

 詩編は、特定の状況に限定されず、一歩引いて(一段抽象化/一般化されて)、多くの人に共感されるものとして共同体の祭儀に取り入れられた経緯がありますので、「ダビデの詩」を上記の説明のように理解した場合、そうした詩編全体の事情とよく合致しているようにも思えます。

詩編28篇

 この詩編は、前半(1-5節)では、主/ヤハウェが「あなた」と二人称で呼びかけられ、詩人が個人的な苦難からの救出を嘆願し、後半(6-7節)では、三人称で「主」について語り、詩人の主に対する信頼が表明されます。これは、前半部分が信頼の表明で、後半部分が嘆願という構成になっている詩編27篇と対になっています。

 詩人が経験している苦難は、そのまま行けば「墓穴に下る」ような事態に展開しかねない深刻なもののようですが、これは口先では「シャローム!」と平和/平安の挨拶をかわしながら、心の中では悪意を抱いているような偽善的な敵対者によってもたらされたものだと説明されます(3節)。「墓穴に下る」という表現は、もちろん「死」を表しますが、ここでは「悪しき者や悪事を働く者」への相応の裁きとして理解されているのでしょう。詩人は自分が墓穴に下ることについて、それが敵対者と同じように扱うことだと考え、「悪しき者や悪事を働く者と共に/私を〔墓穴に〕引いていかないでください」(2節:〔〕は補足)と、主に嘆願します。詩人は、神殿の境内(中庭)で、「至聖所に〔向かって〕両手を上げ」て、自らの潔白を表明します。5節で敵対者について言われていることを裏返せば、この詩人は、敵対者とは対照的に、自分は「主の働きと手の業を悟」っていると理解しています。

 祈りの際に両手を上げる行為は、当時の一般的な祈りの姿勢ですが、それ以上に、自分の手が潔い/潔白であるとのアピールでもあるようです。詩編24篇3-4節にある、「誰が主の山に上り/誰がその聖所に立つのか。/汚れのない手と清い心を持つ人」という表現が、そのあたりをよく表現していますね。

嘆きから称えへの転換

 28篇は、前半の嘆きと救いの嘆願から、後半の種への信頼の表明(信仰告白)への転換が特徴的ですが、これは前半を祈り終わってから、状況が変わって実際に救出された後で、後半を詠ったと考える必要はないでしょう。後半の開始を告げる6節は、この悪しき者に「処罰がくだされたというよりも、祈りの中で詠い手の『心』(7節)に救いの確信が与えられたことを示す」ということでしょう(月本昭男『詩篇の思想と信仰 II:第26篇から第50篇まで』[新教出版社、2003年]、43頁)。

 また最後の8節、9節は、個人から「民」へと対象が変化(拡大)します。個人の詩が民全体の詩として、共同体の祭儀/礼拝で使用されるようになったことを示すものだと思います。 

個人の苦難の多様性

 詩編28篇は、神殿入場を詠う24篇に導かれて、苦難に様々に向き合う25-28篇の4つの詩が一まとまりになっている最後の詩です。苦難を「わが罪」と結びつけて理解する25篇、苦難に対して自らの潔白を強調する26篇、苦難を神の「怒り」と結びつける27篇、そして苦難を「神の沈黙」として経験する28篇です。こうした苦難の多様性は、詩編が様々な状況の信仰者に共感を得て、共同体の祭儀を通してその信仰を導き養う機能を持っていることを示していると説明されます:「苦難理解の微妙な差異を反映させたこれらの嘆願は、それぞれ、苦難の中でヤハウェに救いを求める祈りの典型をなすといってよい。詩篇編纂過程の一段階で、同一類型の、だが祈りの『姿勢』においては異なる典型を示す四つの詩編がここに選ばれたのであろう」(月本『詩篇の信仰と思想 II』、45頁)。

個人の信仰と共同体の信仰

 詩編28篇が、個人の信仰経験を歌った元々の形に、神の民イスラエルの救いを嘆願する部分が最後に追加されたと思われますが、こうした共同体の詩編への編集は、個人の信仰経験が、単にその人一人、個人のことで終わらずに、むしろ、他の信仰者また共同体全体の信仰を導くことを示しています。私たちの個人的な苦難や苦悩もまた、他者の信仰にとって祝福となる可能性を秘めているのですね。心して信仰生活に取り組む必要がありそうです。

宗教法人日本ホーリネス教団中山教会・ 〒273-0024 千葉県船橋市二子町604-1・ 牧師:河野克也 Katsuya Kawano