祈祷会の学びのライブ配信動画です
先ほど終了した11月26日の祈祷会の学びのライブ配信動画を、ブログでも提供いたします。
ヤハウェの比類なさ
詩編35篇は、10節で、主なる神(ヤハウェ)が他に比べることができるものが存在しない、唯一無二の存在であると告白します。
私の骨がこぞって言います。
「主よ、誰があなたのようでありましょうか。
苦しむ人を強い者から
苦しむ人と貧しい人を奪い取る者たちから助け出される方よ」と。
この比類なさは、まさに弱く貧しい、苦しむ者を救い出す神の正義のゆえです。この神の憐れみ深い正義への信頼ゆえに、詩人は24節で、「わが神、主よ/あなたの義にふさわしく私を裁いてください」と嘆願します。
メノナイト派の旧約学者ペリー・ヨーダー氏は、詩編に繰り返されるこの「私を裁いてください」という嘆願が、一見すると危険で違和感のある祈りなのではないか、と指摘します。神がこの祈りに答えて正しく裁いた場合、もしかすると、祈った自分が罪人と認定されて有罪判決を受け、罰を課せられてしまうかもしれないので、こんな危険な祈りはしない方が良いのではないか、と考える人もいるだろう、ということです。もちろん、この指摘はあくまでも「一見すると」という点がミソです。聖書は神を、苦しむ者を救う正義の神として描いている、ということが重要な点です。詩人は、神に対して、人が有罪か無罪かを判定して判決を下す裁判官としての役割を期待してこの祈りを向けているのではなく、苦しむ自分を憐れんで救ってくださる方として、救いを求めて祈っているのだと、ヨーダー氏は説明します。そのように読むと、「一見すると」違和感があり、リスキーな祈りのように思えていたこの祈りも、神に信頼して救いを求める、苦しむ者の切なる祈りとして、よくわかるようになる、ということです。(Perry B. Yoder, Shalom: The Bible's Word for Salvation, Justice, & Peace [Elkhart, Indiana: Institute for Mennonite Studies, 1997], 32-33.)
詩編35篇は、月本昭男氏によると、「敵の不当な攻撃や嘲笑を受けた詠い手が救いを懇願し、敵の滅びを願い、最後のヤハウェ讃美を約束する点で、いずれもおおまかに共通する」三部構成になっています。とてもわかりやすいので、月本氏の構造(アウトライン)を以下に引用します(月本昭男『詩編の思想と信仰 Ⅱ:第26篇から第50篇まで』[新教出版社、2006年]、139頁)。
第1部:1-10節
懇願 わが救いのための「出陣」(1-3節)
祈願 攻撃する迫害者らの破滅 (4-8節)
約束 ヤハウェによる救いの讃美(9-10節)
第2部:11-18節
嘆き わが躓きと同胞らの迫害 (11-16節)
懇願 破滅からの救出と回復 (17節)
約束 公の場でのヤハウェ讃美 (18節)
第3部:19-28節
嘆き 敵による陰謀と嘲笑 (19-21節)
懇願 わが審きと敵の挫折 (22-26節)
約束 ヤハウェへの歓呼と讃美 (27-28節)
その上で、3つの部分「それぞれの背後に想定される敵の攻撃は一様ではなく、詠い手の苦難も一義的に特定することはできない」ことから、月本氏は、この詩編が「不当な苦しみからの救いを求めて神殿に参詣する信仰者たちのために、敵の迫害、孤独な病苦、不当な訴えなどの苦境をあらかじめ想定して準備された、一種の祈りの教本で」あった可能性を指摘します(139-140頁)。つまり、この祈りを祈ることによって、信仰者は、苦しむ者を救う憐れみ深い正義の神ヤハウェへと、その信仰を方向付けられ、強められるということでしょう。この詩編には(そして同様の複数の詩編にも)、教育的な意図また機能があると言えますね。
翻って考えると、教会での公の祈り(会衆の前で、会衆を代表して祈る祈り:開会の祈祷や献金感謝など)もまた、そうした教育的な役割があるように思います。私たち自身、仲間の信仰者の祈り(つまり、その人の人格と信仰)によって、養われ、導かれ、教育されているということです。さて、自分自身の祈りは、仲間の信仰者の養い、導き、教育になっているでしょうか?