nakayama-holinessのブログ

日本ホーリネス教団中山キリスト教会の公式ブログです。

2021年4月15日 祈祷会の学び(箴言23章)

本日の祈祷会の学びの動画です

 4月15日の祈祷会の学びのライブ配信動画を、ブログでも提供いたします。


www.youtube.com

 

支配者との食事

 1-8節は、支配者に宴会に招かれることを警戒するようにとの警告です。昨今の「接待」をめぐる報道では、自分たちに有利な決定をしてもらおうとして、人事やお金、許認可権を握る官僚や政治家を接待する企業の側の問題と、その接待を受けて(その思惑通り)都合の良い決定をする官僚また政治家の問題がクローズアップされます。それに対して、この箴言の箇所では、支配者の方が食事を提供します。それは、招かれる側もある程度の影響力を持っていることが想定されますが、いずれにせよ、なんらかの意図があって招かれているのであり、単なる食事と思うな、ということです。しばらく前に、大手メディアの幹部が「会食」に招かれていることが報道されましたが、権力を監視し、必要とあらば批判するという社会的な役割を担うメディアが、政治権力に飼い馴らされてしまい、批判しなくなるという現状を見事に描いているような気がします。昔もいまも、人間の罪は同じなんだなぁと思うと、ちょっとがっかりしますね(創世記9:21参照)。

 

主を畏れ、公平を語る

 10-11節は、「昔からの地境を移す」こと、また「みなしごの畑を侵す」ことを禁じていますが、ここに想定されているのは、経済的に困窮して先祖から受け継いだ土地を手放さざるを得ない状況です。10a節の「地境を移す」は申命記19:14を念頭に置いた表現ですが、その根底には、「買い戻す権利を放棄して、土地を打ってはならない。土地は私のものであり、あなたがたは私のもとにいる寄留者か滞在者に過ぎない」(レビ記25:23)と命じる「ヨベルの年」の規定があります。レビ記25章25節では、「あなたの兄弟が貧しくなり、所有地を売った場合、買い戻す権利のある血縁の者が来て、兄弟の売った土地を買い戻すことができなければならない」と命じられます。ここに出てくる「買い戻す権利のある血縁の者」が、ヘブライ語でゴーエールという存在であり、「贖い主」とも呼ばれます。ヨベルの年は、人手に渡った土地を買戻してくれる「贖い主」がいない場合でも、50年ごとのヨベルの年には、その土地は元の所有者に戻されるという規定です。このように読むと、10a節の「昔からの地境を移す」ことと10b節の「みなしごの畑を侵す」ことが、基本的に同じ事態を指していることがわかります。

 11節の「彼らを贖う方」は、人間の買戻す権利を持つ親族ではなく、ヨベルの年を命じる神ご自身です。ここでは、経済的に困窮して先祖から受け継いだ土地(畑)を手放さざるを得ない状況に追いやられた上に、その土地を買戻してくれる親族もいないという、圧倒的に弱い立場にある人々の権利を擁護する存在として、神が「贖い主」と呼ばれています。

 強欲資本主義のもとで、一握りの人々(1%)が世界の富を独占し、それ以外の大多数(99%)が貧しさに追いやられている現代の状況において、神が「贖い主」であるとはどのような意味を持つのか、深く考えさせられます。 

 12-14節は、親に対して若者(子どもたち)を厳しく指導することが進められますが、これは決して体罰容認(ましてや体罰推奨)ではあり得ません。彼らが罪に落ちていくようなことにならないように、強制力をもって導くということです。その「魂=命」を「陰府」から救い出すことが、ここのポイントです。

 15節以降は親が子を諭すというスタイルで描かれますが、内容的には、15-18節までが「公平なことを語る」ことと「主を畏れ」ることに関連していて、1節から続く前半部分にまとめられそうです(前半:1-18節)。

 後半(19-35節)は、酒と肉に溺れる怠惰さが罪として描かれますが、単に酒に溺れること(泥酔)を戒めているというよりも、ここでの「酒」と「肉」は、「惰眠を貪る」という表現から想定されるように、勤勉に働かなくても生活できる金持ちの状況として読むことができそうです。そうなると、23章冒頭に描かれる、珍味が提供される支配者の宴会の光景とも重なる気がしますね。

 いずれにせよ、主を畏れることを知恵の始めとして教える箴言は、この主を、貧しい者の権利を擁護し、彼らのために買戻しをする「贖い主」として描きます。箴言は、この主を畏れる公正さを身につけ、また実践することを、私たちに命じているのだと思います。

宗教法人日本ホーリネス教団中山教会・ 〒273-0024 千葉県船橋市二子町604-1・ 牧師:河野克也 Katsuya Kawano