nakayama-holinessのブログ

日本ホーリネス教団中山キリスト教会の公式ブログです。

2020年12月6日 礼拝

アドヴェント第二主日の礼拝動画です

 先ほど終了した礼拝のライブ配信動画をブログでも提供いたします。


2020年12月6日 礼拝

 

「神の指」?

 今朝の説教の箇所は、「ベルゼブル論争」という小見出しがついている箇所です。主イエスが悪霊の働きによって口がきけない人をお癒しになった奇跡について、それは「悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」のだと言って誹謗中傷する反対者が登場します。この批判に対して、主イエスは、ご自身の悪霊追放は「神の指」によるものであって、それは神の国がすでに到来している証拠だ、と反論します。ここで、なぜ「神の指」という表現が使われているのか、気になりますね。

共観福音書の比較

 このエピソードは、共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)に共通して記されているものですが、比較してみると、微妙に異なります。新約聖書学のマジョリティーの見解としては、マルコ福音書が最初にかかれ(紀元70年頃)、その10年ほど後に、マタイとルカがマルコ福音書を資料として大幅に採用して(一字一句同じ場合が多いので)、それぞれ福音書を書いたと考えられています。このマジョリティー説では、マルコには出てこないのに、マタイとルカに共通して出てくるエピソードも多く(その多くは主イエスの言葉)、しかも一字一句同じ場合が多いことから、マタイとルカはマルコ以外にも、共通する資料を用いたと想定します(ドイツ語の「資料」を意味するQuelleという単語の頭文字をとって、「Q資料」と呼ばれます)。その際に、マタイとルカは、それぞれ没交渉で(互いの作業を知らずに)それぞれ福音書を書いたと想定されます(私自身は、マイノリティーの見解で、マルコが最初に書かれた後、マルコを資料としてマタイが福音書を書き、その後、マルコとマタイの両方を資料としてルカが福音書を書いたと考えていますが、それはそれとして、、、)。

 各福音書の詳細な比較は、また後ほどあらためてご説明しますが、何れにせよ、この「神の指」という表現は、なぜかルカにしか出てきません。なぜ「神の指」なのか、理由を考えてみると、おそらく神がモーセ十戒を記した2枚の石の板を授けた旧約聖書のエピソードが意識されているように思います。申命記9章10節には、「主は神の指で記された二枚の石の板を私に与えられた」と、モーセシナイ山での出来事を回想しています。申命記では、この後、イスラエルの民が髪を裏切り、金の子牛の像を作って偶像礼拝をしたことで、モーセが怒ってその石の板を叩き割ったことが報告されますが、その後、モーセのとりなしにより、神の怒りを免れたイスラエルの民に対して、神は再び、前と同じ言葉を2枚の石の板に書き記して与えたのです。従って、この「神の指」という表現には、神の憐れみ深さと赦しの深さが込められているのではないでしょうか。また、書き記されていた言葉は、神とイスラエルの民との契約の根幹をなす十戒の言葉です。それは、イスラエルの民が、自分たちをエジプトの奴隷生活から解放してくださった神の憐れみ深さを経験し、その神との関係に生きることを誓った契約の言葉ですので、神の恵みへの応答の意味も込められていると思います。旧約聖書の時代に、エジプトの奴隷生活にあえぐイスラエルの民を憐れみ、救い出した神は、新約聖書の時代には、悪霊の支配に苦しむ人々を憐れみ、悪例を追放することで彼らを解放しました。どちらの時代にも、神の憐れみ深さを経験した民は、その憐れみ深さに答えて生きることが求められているのです。

 ルカ福音書では、このエピソードの最後に、強い人が守っている家は安泰だが、もっと強い人が襲ってくると略奪されて、分捕り品が奪われることになるという、警告めいた譬えが記されています(マルコとマタイでは、強い人=サタンをまず縛り上げて、その家を略奪する=悪霊を追い出す、という譬えですが、ルカでは別の話になっています)。ルカ版では、この論争の後に、追い出された悪霊が、掃除されて綺麗になっていた元の家に、別の7人の悪霊を連れて戻ってくるという謎めいた譬えが記されていますが、おそらく、神の憐れみ深さに応えて生きる生き方を徹底しないと、前よりも悪い状態になるという意味を込めているのでしょう。ベルゼブル論争の最後の部分と、その次のエピソードが、ルカでは一続きになっているようです。よく考え抜かれた構成ですね。

宗教法人日本ホーリネス教団中山教会・ 〒273-0024 千葉県船橋市二子町604-1・ 牧師:河野克也 Katsuya Kawano