nakayama-holinessのブログ

日本ホーリネス教団中山キリスト教会の公式ブログです。

ユダ王国の滅亡:列王記下18-25章(part 2)

アモン王(前641-640年)

 前回のブログの冒頭に挙げたユダの王の成績表では落ちていましたが、列王記下21:19-26にあるアモン王の評価は、父王マナセと同じで(X)です(6月15日に成績表を修正版と差し替えました)。同じくアッシリアの属国として、忠実にアッシリアの宗教を模倣したのでしょう。アモン王は、家臣たちによる謀反によって殺害されますが、列王記が「国の民はアモン王に謀反を起こした者をすべて打ち殺した」と記すように(24節)、このクーデターは失敗に終わります。当時の状況からすると、やはり反アッシリア派によるクーデターの試みとみるべきでしょう。ここに出てくる「国の民」(アム・ハ・アレツ)とは、「エルサレム以外に住むユダの自営農民」のことを指しますが(山我:124−45頁)、この「国の民」が反アッシリア派のクーデターに同調しなかったのだとすれば、彼らは、宗教的にはともかく、少なくとも政治的には、アッシリアに忠誠を誓うことが平和と安全を確保するために最善だと判断した、ということになりそうです。当時のアッシリアは、山我『時代史:旧約篇』154頁によると、アモンの祖父にあたるヒゼキヤ王を苦しめたセンナケリブ以降も、エサルハドン(前680-669年)、アッシュールバニパル(前668-625年)と、「いわゆる『サルゴン王朝』の有能な王たちの下で強盛の極みに達し、東はイラン高原から西はアナトリアまでを領有し、前671年以降はついにエジプトまでを支配して真の世界帝国の実現を達成していた」ため、反アッシリアのクーデターが成功する見込みは限りなくゼロに近いと判断されたのでしょう(各王の在位年の数字は、ヘルマン/クライバーと山我で微妙にずれていますが、即位年を1年目に数えるかどうかなど、数え方に違いがあり、山我ではそれぞれ在位の年が前681年と前660年、またアッシュールバニパルの治世の最終年は前627年となっています)。ヒゼキヤ王の時のセンナケリブによるエルサレム包囲の記憶や、その少し前の前713年にフィリスティアのアシュドドで起こった反アッシリア派のクーデターが、アッシリアによっていとも簡単に鎮圧された記憶が拭いきれていなかった、ということもあるでしょう。

 ちなみに、下の地図の緑色の一番広い部分が、この時代のアッシリアの勢力範囲です。

f:id:nakayama-holiness:20200611140418j:plain

アッシリア帝国の衰退:コンサイス聖書歴史地図35頁

ヨシヤ王(前639-609年)

 反アッシリア派によるアモンの殺害後、そのクーデターを潰した親アッシリア派の「国の民」は、アモンの息子ヨシヤを王に据えますが、ヨシヤは当時8歳ですから、どう考えても、親アッシリア派の誰かによる摂政として、父王アモンの親アッシリア政策が継承されたのでしょう。列王記下22:1-2の高評価は、当然ながら、3節以降に描かれる改革を念頭においてのヨシヤの治世の総括であって、摂政期の親アッシリア政策に対する評価ではあり得ません。ヨシヤの治世18年に始まった改革を描く3節以降の記述は、ヨシヤが25/6歳になってから、自覚的に統治を行うようになった段階で、大幅に政策転換が行われたことを示しているということになります。

アッシリアとの距離感? 

 ヨシヤ王の改革は、神殿の修復作業として始まっていますが、おそらく、アハズ王がティグラト・ピレセル3世をダマスコに表敬訪問した後に、一大リフォームしてアッシリアの宗教祭儀に合わせたエルサレム神殿を、ヒゼキヤ王が伝統的なヤハウェ宗教の形式に戻したものを、さらにマナセが再びアッシリア風に徹底改造したものを、もう一度ヒゼキヤのヤハウェ宗教型(つまり反アッシリア型)に戻す、という修復作業だったのでしょうね。単なる老朽化した箇所の修理ではなかったはずです。かつてユダの王ヨアシュが大規模な神殿修復を行っていますが(列王記下12:7に、ヨアシュの治世第23年とあるので、計算すると前817年頃?)、ヨアシュは祭司ヨヤダによって匿われて、祖母に当たるアタルヤによる殺害を免れ、祭司ヨヤダ主導のクーデターでアタルヤに代わって7歳で王に即位した人物です(前840年:列王記下11章)。ヨシヤ王も、この流れでエルサレム神殿ヤハウェ宗教を重視する立場だったということになるのでしょう。山我『時代史:旧約篇』は、ヨシヤの父王アモンの時の混乱に際して、「ヨアシュの時と同様、『国の民』が介入したこと」を指摘しますが(156頁)、だとすると、この「国の民」はヤハウェ宗教の担い手ということになり、反アッシリア勢力ということになります。列王記下21:19-24の記述を額面通り受け取れば、マナセの道(親アッシリア)を継承したアモンを殺害した人たちの動機は、反アッシリア派のクーデターと読めるのですが、この反アッシリア派のクーデターを潰した「国の民」が、新アッシリア派ではなく、祭司ヨヤダに連な流、ヤハウェ宗教の純化を目指す反アッシリア派だったのであれば、上段に書いたように、彼らもまた、時代の趨勢を見極めて、今はアッシリアに逆らうべきではないと判断した、ということになりますね。この辺りは、私自身まだまだ十分理解しきれていない気がします。もう少しちゃんと調べてみないといけませんね。

 いずれにせよ、この神殿修復(再々改造)の作業中に、神殿内で「律法の書」が発見されるという、決定的な出来事が起きます。

ヨシヤ王の宗教改革

 ヨシヤ王の改革は、神殿で発見された「律法の書」に基づいて、ユダの宗教政策を方向転換するというものでしたが(列王記下22:8-23:28)、この発見された書は、どうやら私たちが印刷した形で持っている旧約聖書申命記の中核部分に相当するようです。山我『時代史:旧約篇』によると、その書は、ヤハウェ宗教の復興を願う人たちによって形成・編纂されたもののようで、「古い宗教的・社会的法伝統を新しい時代に適合させ、一つの神、一つの民、一つの聖所の理念のもとに(申6:4-5; 12:11等を参照)、モーセ時代のヤハウェ宗教に回帰することを目指し、モーセ時代のヤハウェ宗教に精神的に回帰することを目指し、また神との契約の現在的意味を強調した(申5:3; 29:13-14等を参照)」ということで(156頁)、実際にヨシヤ王が行った改革も、①祭儀のヤハウェ宗教的純化、②祭儀のエルサレム神殿への限定・集中、③アッシリア領だった旧北王国のべてる、サマリアへの宗教改革の拡大、という3点において、その方向性と一致するとともに、「ダビデ・ソロモン時代の南北統一王国の再建を目指していた」もののようです(山我:158頁)。

 もちろん、こうした大規模な宗教改革は、ヨシヤ王個人の信心深さで達成できるものではなく(信仰者は、スーパーマンではありません!)、アッシュールバニパルの死後、急激に衰退しつつあったアッシリアの現状が大きく味方した、ということもあったと考えられます(山我:158-59頁)。バビロニアは、かつてメロダク・バルアダン王の時にヒゼキヤ王と連携して反アッシリアの反乱を画策したことがありましたが(列王記下20章)、ヨシヤの時代にはナボポラッサル王(前625-605年)によって独立し、南ではエジプトもプサメティコス1世(前664-610年)によって、アッシリアを駆逐して第26王朝が再建されていましたので、そうした国際情勢が追い風になって、大胆な反アッシリアヤハウェ宗教回帰の改革ができたのでしょう。実際に、この情勢において、ヨシヤ王はアッシリアの支配から(一次的にではあれ)脱して、独立王国を再建できていたという評価もできるようです(山我:159頁)。

 タイミング的には、この「律法の書」の「発見」も、前段で触れたエルサレム神殿の伝統主義者たちが、そうした情勢をにらみながら、ここぞという時に「律法の書」を王に届けたのでしょうね。政教分離という概念を持たない昔ですから、今以上に、信仰生活においても政治的な洞察力が必要だったということでしょう。個人的には、政教分離が前提となっている現在でも、やはり政治的な洞察力は不可欠だと思いますが。

 さて、残念なことに、ヨシヤ王は、この改革の最中にエジプト軍との戦いで戦死します(列王記下23:29-30)。列王記の記述は、この辺りでとてもわかりにくいと思います。エジプトのファラオ・ネコ(前609-594年)が、「アッシリアの王に向かって、ユーフラテス川を目指して上って来た」(9節)とありますが、聖書協会共同訳の欄外注には、アッシリアの王「と会うために」という別訳が記されています。「アッシリアの王に向かって」だと、アッシリアと敵対して、アッシリアと戦うために北上したように読めますが、「アッシリアの王と会うために」だと、アッシリアと友好関係にあって、アッシリアのための援軍として北上したように読めます。大違いですね。さて、どちらが正解でしょう? 

 ちなみに、同じエピソードを記した歴代誌下35:20-25では、ヨシヤは、カルケミシュを目指して北上するネコを「迎え撃つために出て行った」ところ、返り討ちに合って戦死したとしていますが、エジプト軍がアッシリアの敵軍か援軍かは明記していません。頼みの綱の山我哲雄先生は、この時アッシリアが置かれていた状況について、「新バビロニアとメディアの連合軍に敗れて首都ニネヴェを追われ、シリアのハランに立て籠ってアッシュルウバリット2世(在位前612-609年)のもとでバビロニアとの絶望的な戦いを続けていた」と説明し、さらに、エジプトのファラオ・ネコは、「アッシリアに替わって新バビロニアが強大な勢力になることを恐れた」ため、その「アッシリアの残党を支援するために、パレスチナの海岸平野を北上してきた」、つまりアッシリアの援軍だったと説明します(山我:161頁)。

 この場合、歴代誌の記述に従えば、アッシリアの援軍として北上するエジプト軍を「迎え撃つために出て行った」ヨシヤの意図は、「反アッシリア的立場」から、「エジプト軍がシリアでアッシリアに合流するのを阻止しようとした」ということになります(山我:同頁)。しかし、この歴代誌の記述はより後の時代の説明で、列王記のシンプルな記述の方が古いことから、実際のヨシヤの死ももっと単純で、「海岸平野にエジプトの派遣を確立しようとしたネコがヨシヤをメギドに呼び寄せ、臣下としての忠誠を誓わせようとしたが、ヨシヤがあくまでこれに応じなかったことが原因」で、単純にネコに殺されたと理解する研究者もいるようです(山我:162頁)。山我先生は「真相は不明と言うしかない」と匙を投げていますが(同頁)、ヒゼキヤ王の時にバビロンと連携したことを考えれば、この時も、ヨシヤがバビロニアと連携して、アッシリアの援軍として北上するエジプトを阻止することで、アッシリアにトドメを刺すバビロンを支援しようとした、というシナリオは十分考えられるような気がします。援軍同士の対決、アッシリアとバビロンの代理戦争、というところでしょうか?

ヨシヤ以後の混乱

 いずれにせよ、一時的にエジプトがパレスチナ地域一帯を支配することになり、その後のユダ王国は、まずはエジプトによって、続いてバビロンによって、次々に王の首がすげ替えられる状況が続きます(列王記下23:31-24:20)。ヨシヤの死を受けて、「国の民」はヨシヤの息子ヨアハズを王に据えますが、エジプトのネコは、ヨアハズを幽閉して、膨大な額の罰金を科した上で、別の息子ヨヤキムを王に据えます(23:31-35)。ヨアハズは、ヨシヤの改革路線を引き継ぐことを期待されて、兄ヨヤキムを差し置いて王に据えられたのですが、エジプトから見れば、新バビロニア派ということで、早々にすげ替えられた、ということでしょう。ヨヤキムは、元々はエルヤキムという名前だったのを、エジプトのネコによって改名されて王位に据えらたので、少なくとも表面上は親エジプト派ということになるでしょうか? それでもユダ王国に課せられた罰金のために、国に重税を課すなど、エジプトに対して一定の反感を抱いていた可能性はあるかもしれません。

 その後、バビロンが勢力を拡大してパレスチナ地域からエジプトを駆逐すると(24:7)、ヨヤキムは(当然ながら)バビロンの支配下で生きることを余儀なくされます。この辺り、エジプトの罰金に反発していたとすれば、特に抵抗することなくバビロンの支配を受け入れたのかもしれません。ところが、エジプトにまで勢力を伸ばそうと南下したネブカドネツァルがエジプト軍の返り討ちによって大打撃を受けると(前601年)、ヨヤキムは脱バビロンを画策し、朝貢を止めたようです(24:1)。ひょっとすると、根っこのところではやはり親エジプト派だったということでしょうか?(それとも、単純に科された罰金と朝貢の金額を秤にかけたのか、あるいはエジプトが、バビロンに対抗するためにヨヤキムを自分たちの側に引き戻そうとしたのでしょうか?) 

 いずれにせよ、バビロンがすぐには戻ってこないと踏んだヨヤキムの判断は、最終的には甘かったようです。ヨヤキムの死については、列王記の記述だけでは、戦死か親バビロン派による暗殺か不明ですが(24:6、山我:166頁)、代わって王となった息子のヨヤキン(元の名:エコンヤ/コンヤ)は、態勢を立て直して南下してきたネブカドネツァルによる前597年の第一回捕囚でバビロンに捕え移され、代わりにおじのゼデキヤ(ヨアハズの弟、元の名:マタンヤ)が王に据えられます(24:8-17)。ゼデキヤは当初はバビロンに従順でしたが、周辺各国の反バビロン連合に加わり、エジプトの援助も見越して(?)、ついにバビロンに反逆します(前589/588年頃:列王記下24:20、山我:168頁)。この辺りの事情はエレミヤ書の記述が詳しいですが、山我先生によると、「バビロニアの支配を国家と民族の罪に対する神の罰として受け入れるように説くエレミヤのような人々と、あくまでバビロニアへの反乱を主張する国粋主義的好戦派とが対立していた」ようです(山我:同頁)。預言者エレミヤが、エジプトに頼ることを戒め、バビロン捕囚を神による罰として甘んじて受けるように勧めたことは、エレミヤ29章にある、エレミヤが第一回捕囚でバビロンに捕え移された人々に書き送った、いわゆる「エレミヤの手紙」が有名ですが、列王記も、同様にバビロンによる攻略と滅亡を罪に対する罰とする視点を強調します(24:2-4,20)。25章の一連の記述は、エルサレムの陥落や神殿の破壊を描いていて、読んでいて気が滅入るのですが、最後に、バビロンでのゼデキヤ王の扱いについて、多少なりとも胸を撫でおろせる記述があるのは、せめてもの救いと言うべきでしょうか? いずれにしても、国が滅びる時期の混乱を考えると、複雑な心境ですね。

 歴史の出来事を、直接的に神の決定として説明することについては、現代の私たちは注意深くある必要があるでしょう(例えば、東日本大震災や今回の新型コロナウィルスの蔓延を、神の裁きとして説明することは、現に慎むべきでしょう)。それでも、自分自身や自分の民族、国家などのあり方を、信仰的な視点から吟味し、反省し、軌道修正する姿からは、学ぶべき点が多いと思います(日中戦争から太平洋戦争に至る昭和の15年戦争や、その中での天皇神格化、徴用工や慰安婦の問題など、私たちの国の歴史の汚点を、敗戦を機に真剣に反省する視点を養うことは大切だと思います)。ホーリネス系の教会は、戦時中の弾圧の経験を忘れないように、毎年6月に弾圧記念聖会を開いていますが(今年は新型コロナで中止)、単に被害者意識を煽るようなことであってはならないでしょう。歴史を丁寧に掘り起こして、戦前戦中の教会の歩みを振り返り、同じことが繰り返されることのないように、心して聖書を読みたいと思います。弾圧と解散を経験した中山教会の歴史についても、どこかの地点で、しっかり向き合う機会を作りましょう。

f:id:nakayama-holiness:20200611173335j:plain

バビロン捕囚:コンサイス聖書歴史地図(36頁)

 

宗教法人日本ホーリネス教団中山教会・ 〒273-0024 千葉県船橋市二子町604-1・ 牧師:河野克也 Katsuya Kawano