nakayama-holinessのブログ

日本ホーリネス教団中山キリスト教会の公式ブログです。

6月11日祈祷会の学び

ユダ王国の滅亡:列王記下18-25章(part 1)

 先ほどお知らせした通り、今週の祈祷会の学びは、動画を1回お休みさせていただき、ユダ王国の滅亡までを扱った列王記下の最後の部分について、先週の動画でお話ししたことをブログの記事として改めてご提供したいと思います。まずは、ヒゼキヤ王以降の王の成績表です。

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南王国ユダの王の成績表

 

北王国イスラエルの滅亡時のユダ王国

 時代背景は、山我哲雄『聖書時代史:旧約篇』(岩波現代文庫、2003年)第6章「アッシリアの進出と南北両王国の運命」、第7章「ユダ王国の滅亡とバビロン捕囚」と、S.ヘルマン/W.クライバー『よくわかるイスラエル史:アブラハムからバル・コクバまで』、樋口進訳(教文館、2003年)第7章「独立王国としてのユダとイスラエル」の後半部分が、説明がわかりやすくて便利です。また、デイビッド・P・バレット『コンサイス聖書歴史地図』、伊藤暢人訳/津村俊夫監訳(いのちのことば社、2018年)の地図と図が、非常に美しくわかりやすいです。(ちなみに、上段のユダの王の成績表は、ヘルマン/クライバーの『よくわかるイスラエル史』94頁の年表をベースに、その他の資料などを参照しながらまとめました。)

ヒゼキヤ王(前725-697年)

 ヒゼキヤ王の時代は、ちょうどアッシリア帝国が勢力を拡大していた時代でしたので、それに対抗するために、北イスラエルとそのもう一つ北のアラム(シリア)が、反アッシリア軍事同盟を組んで対抗したものの(シリア・エフライム戦争:前733年)、最終的には滅ぼされる(イスラエル王国滅亡:前722年)という結末を迎えます。

 ヒゼキヤの父王アハズの時に、ティグラト・ピレセル王の治世だったアッシリア帝国の属国となって、アッシリアに大量の貢を納めて、宗教政策についても、エルサレム神殿をダマスコの神殿そっくりにリフォームするなど、すっかりアッシリアの宗教祭儀を受け入れる形になったため、アハズ王は、列王記では非常に厳しく評価されます(列王記下16章)。

 ヒゼキヤが王位を継承した時点では、アッシリアの王はシャルマナサル5世になっていましたが、すぐにサルゴン2世に交代し(山我『時代史:旧約篇』144頁によれば、おそらくクーデター:前721年)、ユダ王国も相変わらずアッシリア支配下にあった、というわけです。それでも、ヒゼキヤ王はアッシリアの支配から脱する機会を窺っていたようで、エルサレムが包囲されても持ちこたえられるように、水を確保するための地下水路を造設したり、都自体の要塞化を進めたようです。

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ヒゼキヤによるエルサレムの防備強化:コンサイス聖書歴史地図(34頁)

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ヒゼキヤ時代のエルサレム:コンサイス聖書歴史地図(32-33頁)

ヒゼキヤ時代のエルサレムが、ソロコンの時代と比べても西側に相当拡大されているのがわかります。

 山我『時代史:旧約篇』によれば、アッシリアのティグラト・ピレセル3世は、「以前からアッシリアがしばしば行ってきた反抗的な民族の集団移住政策を徹底させ、征服した諸民族を事実上相互に混合させて、征服民の民族的同一性を解体して反抗の可能性を断った」(137頁)ということですから、ヒゼキヤ王がアッシリアの支配を脱したいと思うのも当然ですね。

 ヒゼキヤ王は、前713年にフィリスティア(ペリシテ)のアシュドド(エルサレムの西60㎞程)で起こった反アッシリア派による反乱に乗じて、脱アッシリアを目論んだようですが、アッシリアサルゴン2世がアシュドドの反乱をあっけなく鎮圧したことで、ヒゼキヤも早々に手を引いたと考えられるようです(山我:147-48頁)。ヒゼキヤのエルサレム要塞化は、この(苦い?)経験を経て迅速に進められたようです。

 ヒゼキヤ王の宗教政策は、こうした背景を考えると、ある意味では、アッシリアの属国として(の立場もあり?)父王アハズが進めた徹底的なアッシリア化(宗教的従属)に対する反発という側面もあったのでしょう。逆に徹底的に伝統回帰(=脱アッシリア化)を進め、異教的要素を一掃します。列王記の評価が高いのも頷けますね。

 ヒゼキヤによる脱アッシリアの試みは、剛腕サルゴン2世の死(前705年)を好機と捉えたようですが、ちょうど同じ時にバビロニアで起こった脱アッシリアの反乱も、同じようにサルゴン2世の死を好機と捉えたものでしょう。列王記下20章には、バビロニアのメロダク・バルアダン王が病気のヒゼキヤに手紙と見舞いの贈り物を送ったことが書かれていますから、両者の脱アッシリア反乱は、当然ながら連携していたということになります(山我:148頁)。これは両者が以前から連携したということであって、ヒゼキヤがメロダク・バルアダンの病気見舞いでハートを鷲掴みされた、というわけではないでしょう。いずれにせよ、サルゴン2世のあとを継いだセンナケリブは、まずバビロニアの反乱を蹴散らし、間髪入れずにユダの反乱を押さえ込みにかかります。こうして、前701年にエルサレムが包囲されると、ヒゼキヤは莫大な貢を課せられた上で、アッシリアに降伏します。おそらくエルサレム包囲中にアッシリア軍を襲った疫病のおかげで(もちろん、聖書的には神の助けです!)かろうじて滅亡を免れたユダ王国は、アッシリアの属国として、その後もアッシリアの宗教的影響とどう折り合いをつけるかを問われ続けることになります。

マナセ王(前696−642年)

 ヒゼキヤのあとを継いだマナセは、列王記的には諸悪の根源のような扱いですが、当時のアッシリアの圧倒的な軍事的プレゼンスの前で、政治的には懸命な判断として(もちろん、宗教的にはバツ印ですが)、アッシリアに忠実に従う選択をします。マナセが導入した異教の祭儀や習慣は、アッシリアへの忠誠の印であり、政治的パフォーマンスの側面もあったかもしれませんね。単に個人としてのマナセが不進行だったという評価だけでは片付けられない気もします(同情していいかどうかは、また別の話ですが)。私たちの信仰生活も、決して周りの環境と無関係ではないし、政治的に真空状態で、単純に個人の信仰の決断だけで成り立つものでもないので、あまり人様の信仰をとやかく言うべきではないのかもしれませんね。この辺りは、戦時中に弾圧と解散を経験した中山教会としては、特に他人事ではないように思います。

ちょっと一休み:続きは午後に!

宗教法人日本ホーリネス教団中山教会・ 〒273-0024 千葉県船橋市二子町604-1・ 牧師:河野克也 Katsuya Kawano